Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.5

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その7

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (六)管理人註

暴動後の 京阪 大塩の生 死は大問 題 大塩の退 き口

 大塩の暴動は、実に大阪のみならず、満天下を動かした。暴動後の彼抑評判は非 常なものである。当時の手紙に依つて見ても、京都あたりでも、暴動後、一箇月位、 則ち三月の二十四五日頃までは、人気は静まる模様無しとある。況して大阪市中の 人気は、大塩が愈愈捕へられるか死ぬるか、落着の説が定まるまでは、却々に鎮静 しなかつた。政府に於ては、市中の人気を鎮静する為に、種々の手段を講じた。其 の為には非常に骨を折つた。芝居、寄席、興行物、総て干渉して、成るべく賑やか に遣らせるやうにした。而して床屋などに於ても、大塩の風聞をすることは遠慮す るやうに達した。内々皆狐鼠々々と大塩の話をして居る許りであつた。市中に於て 表向きは、暴動の風説は殆ど静まつて、芝居、寄席総ての興行物は、年生よりも盛 んになつた様に見えて、殆ど暴動後の人心恟々たる有様は、表面には見られないや うに景況であつた。大塩の事件を探索の為に諸方から市中に入込んだものも少なく なかつた。有志の諸大名などは、大塩暴動の真相如何と取調べる為に、心利きたる 士を続々大阪に派遣したのであつたが、町へ入つて大塩の噂を聞かうとしても、前 に云つたやうな次第で、誰れも話して聞かするものが無く此方らで話せば反対に注 意人物と見られるやうな有様であつた。  大塩の行衛が分らないと云ふことは、幕府に取つては大問題であつた。農府は、 草を分けても、彼の行衛を捜し出ねばならなかつた。彼が生存して居る以上は、必 ず再挙を試みるに相違ないといふことは、官憲に於ては一般に予想をして居つた。 当時の手紙に斯ういふこと書いたものがある。「大塩の徒党は都合五百人許りある。 外に五百人許りの徒党を集めて、大塩に一味して居る者がある。合せて千人許りの 暴民である。尤も其の内百姓共は、大分召捕られたけれども、併しまだ大部分は調 べがつかない。其の上に大阪で牢屋が焼けて、罪人が三百人許りも放出して、此れ 等も其の紛れに大塩の残党の中に入つて、悪事をして居るであらう」といふ疑ひも 有つた。それで結局大塩の徒党は千人許り有るものと想像せられて居つた。此れ程 の味方が有る以上は、其の崇拝の中心たる大塩の行衛は、草を分けても捜さねばな らぬ。若し竟に何くへ行つたか分らないならば、それは油々しき大事であると考へ られた。然るに、実際には大塩の徒党といふものは、それ程沢山なものではなかつ たらしい。けれども当時に於ては、其の真相を知ることが難いのであるから、却々 に誇張した風説が伝はつて居つて、奉行方に於ては、一日も此の問題を楽観して居 る訳には行かないのであつた。  大塩に恐ろしい処は、其の再拳の患である。再拳を恐れる訳は、一面斯ういふ想 像が有つたらしい。即ち暴動の時市中に放火して、多くの富豪から莫大な金銀を押 領して居る故にそれが他日の軍用金となるであらうといふことであつた。それで、 大塩が山に在るか海に在るか、何れ落延びて再び出軍した時には、直に多数の党与 も起つて騒ぐであらうし、油断のならぬことであると考へられた。  大塩の退き口に就いての想像は如何といふに、それは重もに大和河内の方に掛け て捜索せられた。一方に大塩は河内から大和路或は吉野の奥にでも逃込んだのでは 無からうかと思はれた。大塩に一味した百姓などは、和泉、河内殊に河内のものが 多かつた。暴動後に捕縛に就いたものは河内路に多かつた。それ故此の方面に逃口 を求めたに相違ないといふ想像が一般に起つた。丹波の方面は米穀が少ないから、 再挙に不便であつて、必ずしも此の方面には逃れぬであらうといふ想像であつた。 吉野の奥、十津川などは.今日に於ても極めて僻遠である。況して当時に於ては、 余程調べにくい処である。大阪の与力の話に拠るも、色々調べた処で、此の余党は 関西の方へ逃げた形跡は殆ど無いと云つて居る。是非吉野方面に逃げたのであらう などゝ考へて居つた。併しながら、大塩の党与で九州方面までも落延びて、後には 長崎の商人に化けて仕舞つたものも有つた。長崎で有名な和泉屋満次郎なども、大 塩の余党であるといふことである。関西の方に遁れた者が、此男一人といふ訳でも 無からう。さういふ有様であるから、関西の方に散乱した余党が無いといふことは ない。併しながら、関西は確かに稀れであつた。重もに河内路.大和路に掛けて逃 口を求めたものが大部であつたらう。吉野の奥に至つては、大阪方の取調が行届か なかつた。伊豆の韮山の江川坦菴の命を受けて、態々大阪まで取調に凍た斎藤弥九 郎の如きは河内路へ遍歴して、吉野に掛けて吉野口までは大分調べて見たけれども、 終に手掛りが無い。それに饑饉年であり、僻地には、殊に米が欠乏でかるから、吉 野方面の旅行は最も困難を感じて.遂に奥の方までは入ることが出来ないで引返し た。  大塩父子追捕の命令は、上方のみならず、諸方津々浦々までも及んで、厳しく吟 味せられた。二月十九日に暴動が有つてより、三月半ばを過ぎて、一箇月経過して も未だ手掛りが無いやうで、大阪あたりでは.其の為に御老中も大阪へ出張有るべ きやうに風聞せられた位であつた。

   
 

「大塩平八郎」目次/その6/その8

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