Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.8.6

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大塩の乱関係論文集目次


「大塩平八郎」

その8

横山健堂(1871−1943)

『人物研究と史論』金港堂書籍 1913より転載


◇禁転載◇

  (七)管理人註

天下の問 題 斎藤弥九 郎 大塩逮捕 に対する 坦菴の苦 心

 大塩父子追捕の問題は、最早大阪町奉行の問題では無くして、実に天下の問題に なつた。大塩は海に入つたか山に入つたか、上方附近で一箇月経ても其の手掛りを 得ない以上は、彼は上方附近に迂路々々しては居らないで、或は遠く高飛びしたの ではあるまいかといふ風聞が、それからそれと、次第に波の圏の如くに諸国に伝波 して居つた。伊豆韮山の江川坦菴は大塩が若し海上に乗出して、大島、八丈島に引 籠もるやうなことがあつては、容易ならぬことであると考へたので、其の家来の斎 藤弥九郎に命じて、密に上方を探索させて先づ大塩の逃口を調べさせた。此の斎藤 弥九郎といふは、近世に有名な剣客である。元は甲州の浪人で、無念流の達人であ つて、道場を飯田町に開いて居つた。江川及び藤田東湖などと共に、岡田十松の高 弟である。此の弥九郎は却々の人物で鑑識にも富んで居り.一廉役に立つ男であつ た。彼の門には木戸孝允始め今の子爵山尾庸三、渡辺昇、柴江運八郎などゝいふも の等を始めとして、多くの名士や剣客を出した。此の人は江川に仕へて居つた。此 れ程の人物であつたからして、大阪へ行っても、十分に其の筋に就いて探索を遂げ て、処々方々と調べて復命をした。弥九郎の復命に依つて、結局大塩父子の行衛は 分らないといふことになつたのであるから、或は彼れ大塩は遠く関東の方までも落 延びたのではあるまいか。若し然りとすれば、甲州は去年を百姓一揆があり、旁々 不穏の土地であるから、此の如き地に入込む時は、是れ亦一大事であるといふので、 用意周到なる坦菴は弥九郎と共に、竊に自分の屋敷を抜出でゝ、商人に変装して甲 斐の国を探索した。  暴動後の大塩は、江川坦菴の如き大人物をして、斯く迄に捜索に苦慮せしめたこ とは、今日から見れば、余程不思議にも思はれるけれども、普時交通機関が不完全 にして、諸方而の事情容易に分り難い時にあつては、此れ程迄に苦心するのは、坦 菴は又其の職務に熱心なるの結果に外ならぬのであつたと謂はなければならぬ。暴 動前に大塩と坦菴との間には、何等の関係が無かつた。然るに、暴動後の捜索に就 いては、坦菴と大塩といふ一の題目を有する丈けの材料の有ることは又一の奇談で ある。  当初弥九郎が大阪に行く時に、坦菴に言ふには、私が予ねての覚悟は、斯かる際 に御奉公する為である。此の際粉骨砕身は固よりのことであるが、時宜に依つては 平八郎を召捕り又は打捨てるにも、存分の働き出来るやうに、お仕向けを願ひたい と申し立てたので.坦菴も尤もと聴いて、早速証文を認めて弥九郎に渡した。其の 証文の大体といふは、「今度大阪表暴動に就き、党類逃口取調の処、家来斎藤弥九 郎を差出候間、時宜に拠れば、御領は御代官、私領は地頭へ掛合候儀も可有之候。 尤も手延に難致節は、直に搦取又は打捨候共勝手次第の事に相達候。」といふやう な意味であつて、太郎左衛門の姓名が認めてあるといふことである。自分は此の証 文をまだ見たことがない。此れは唯当時の人の風説書に拠つたのである。けれども、 坦菴が弥九郎を大阪に特派するに就いては、斯ういふやうな事実の有つたらうとい ふことは、想像し得ることゝ信じて居る。








大坪武門
「大塩平八
郎の乱に大
阪に赴く

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