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さて平八郎は同志を糾合したが、同組の同心平山助治郎及び近藤右衛門
の二人が、平八郎の将に明朝を以て事を発せんとするに及び、跡部山城守
に平八郎反逆の由を密告したので、其夜急に助次郎を駕籠で江戸に送り、
事由を訴へしめ、さて奉行より城代に之を急報して、防備の手当をなした
のである。それとは知らぬ平八郎方では、兼て山城守は、二月十九日早期
より、見分の事あつて役宅を出る筈であるから、之を途上に於いて狙撃し、
然る後石火矢を放つを合図に、四方の貧民一時に呼応して、富豪の家に乱
入すべき手筈であつたが、既に変心者があつて、その手筈を誤つた為め、
今は前後の考もなく、先づ己れが居宅に放火し、夫れより所々に火矢を射
込んで火を起し、其の混乱に紛れて貧民等に金穀を掠奪させることゝした
が、奉行方では前夜既にその用意を整ふてゐたので、火災は所々に起つた
けれども、乱民の掠奪はさ程の事もなく、殊に大阪城番の大名は、兵を出
して乱民を討伐したため、平八郎方は敗北して、或は討たれ、或は焼死し
た。中にも平八郎父子はその場を遁れ、油掛町五郎兵衛といふ者の別宅に
潜伏してゐたが、訴人があつて、二月二十七日、逮捕の人々来るや、平八
郎は火を放つて自殺した。この火災は十九日より二十一日に渉り、寺社、
武家、町家を合せて一万八千二百五十余軒、町数凡そ百二十町、実に大阪
開府以来、未曾有の大災と称せられ、世に之を天保の大塩騒動と云ふので
ある。平八郎は時に四十五歳であつた。
さて平八郎の挙兵は、先の檄文にも明かなる如く、全く窮民を愍むの真
情に出たものであることは否めない。世上、大塩平八郎の乱を目して、或
は社会主義者であると云ひ、或は勤皇論者であると云ふ論者もあるが、少
しく穿ち過ぎた議論であると思ふ。何となれば、平八郎は当時富豪の財産
を奪ひ、之を貧窮者に分たんとしたのに違ひないが、之は全く救民が第一
の目的であつて、決して根本的に社会組織を改造せんとするやうな考は持
つてゐなかつたやうである。更に檄文の中に天子云々より、中興神武云々
の語あるによつて、勤皇の美挙と言ひ囃すのも果して如何かと思はれる、
われ/\は疑問を挟むものである。
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平山助治郎
平山助次郎
が正しい
近藤右衛門
吉見
城番
定番
二月二十七日
三月二十七日
が大塩父子の
死亡日
幸田成友
『大塩平八郎』
その159
大塩焼け
被害一覧
大塩檄文
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