Я[大塩の乱 資料館]Я
2014.7.12

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「大塩の乱関係論文集」目次


「大塩平八郎」
その7

雄山閣 編

『類聚伝記大日本史 第10卷』 雄山閣 1936 収録

◇禁転載◇

 二 経歴一般 その二−大塩平八郎の乱 (3)

管理人註
   

 さて平八郎は同志を糾合したが、同組の同心平山助治郎及び近藤右衛門 の二人が、平八郎の将に明朝を以て事を発せんとするに及び、跡部山城守 に平八郎反逆の由を密告したので、其夜急に助次郎を駕籠で江戸に送り、 事由を訴へしめ、さて奉行より城代に之を急報して、防備の手当をなした のである。それとは知らぬ平八郎方では、兼て山城守は、二月十九日早期 より、見分の事あつて役宅を出る筈であるから、之を途上に於いて狙撃し、 然る後石火矢を放つを合図に、四方の貧民一時に呼応して、富豪の家に乱 入すべき手筈であつたが、既に変心者があつて、その手筈を誤つた為め、 今は前後の考もなく、先づ己れが居宅に放火し、夫れより所々に火矢を射 込んで火を起し、其の混乱に紛れて貧民等に金穀を掠奪させることゝした が、奉行方では前夜既にその用意を整ふてゐたので、火災は所々に起つた けれども、乱民の掠奪はさ程の事もなく、殊に大阪城番の大名は、兵を出 して乱民を討伐したため、平八郎方は敗北して、或は討たれ、或は焼死し た。中にも平八郎父子はその場を遁れ、油掛町五郎兵衛といふ者の別宅に 潜伏してゐたが、訴人があつて、二月二十七日、逮捕の人々来るや、平八 郎は火を放つて自殺した。この火災は十九日より二十一日に渉り、寺社、 武家、町家を合せて一万八千二百五十余軒、町数凡そ百二十町、実に大阪 開府以来、未曾有の大災と称せられ、世に之を天保の大塩騒動と云ふので ある。平八郎は時に四十五歳であつた。  さて平八郎の挙兵は、先の檄文にも明かなる如く、全く窮民を愍むの真 情に出たものであることは否めない。世上、大塩平八郎の乱を目して、或 は社会主義者であると云ひ、或は勤皇論者であると云ふ論者もあるが、少 しく穿ち過ぎた議論であると思ふ。何となれば、平八郎は当時富豪の財産 を奪ひ、之を貧窮者に分たんとしたのに違ひないが、之は全く救民が第一 の目的であつて、決して根本的に社会組織を改造せんとするやうな考は持 つてゐなかつたやうである。更に檄文の中に天子云々より、中興神武云々 の語あるによつて、勤皇の美挙と言ひ囃すのも果して如何かと思はれる、 われ/\は疑問を挟むものである。



平山助治郎
平山助郎
が正しい

近藤右衛門
吉見



















城番
定番




二月二十七日
月二十七日
が大塩父子の
死亡日

幸田成友
『大塩平八郎』
その159

大塩焼け
 被害一覧













大塩檄文
 


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