「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
天保二年辛卯先生三十九歳 (3) | |
林大学頭ノ 家政ヲ救済 ス *1 五郎左衛門 一ニ衛門太 郎ニ作ル |
是年林大学頭ノ家政窮乏シ、執事ノ将ニ大阪ニ来テ債ヲ市ニ募ラントスルニ会ヒ、先生憤然トシテ天下ノ学宗遂ニ茲ニ至ラシムベカラストシ、自ラ千金ヲ作テ一時林家ノ家政ヲ救済ス、知ル者先生ノ義侠ヲ称セサルナシ。 千里翁聞書云 平八郎が林大学頭の頼母子無尽講を峻拒して別に千金を義捐したる如き、当時に在て実に美談中の美談佳話中の佳話たるを失はじ、 平八郎一日同僚八田五郎左衛門 *1 なるものを訪ふ、座に一客あり未た相識らす、 平八郎五郎左衛門に問うて曰く渠れ何為ものぞと、答て曰く彼は江戸の客林祭酒の執事なり、方今林家貧歉家政殆と支へす、因て頼母子無尽講を四方に募り衰運を挽回せんと欲し、今や当地に来て千金を募ることを嘱せらる、予左思右考未た答ふる所を知らすと、
平八郎喟然として嘆じて曰く嗚呼林家は天下の学政を掌るもの、 義気凛然執事に説くに大義を以てす、 曰く頼母子の事たる固と征利の徒の為す所、堂々たる林家にし て今忍んで此を為す天下其れ此れを何とか言はん。 平八郎貧なりと雖も胸中 一策なきに非す、肯て明日を期して千金を林家に投せん、執事早く江戸に帰り以て頼母子の議を止め、林家をして汚名を蒙らしむること勿れと、義気色に溢れ、乃ち明日を約して去る、 平八郎固と廉潔門に鬻獄銭を納れす、麁食浣衣厳苦自ら持す、故に室内万巻の蔵書の外留儲見銭なし、 是に於て門人中の富裕守口村白井幸右衛門、盤若寺村橋本忠兵衛等数人を招き、説くに林家の実情を以てし千金立ちに整ふ、明旦期に及んで執事来る、平八郎予め酒一壷を出し、別に下物を具へす、曰く僕か家元と清貧執事を留めて欸待するの別物なし、只平生教養する所の門人数輩あり以て下物に資すと、乃ち諸生の経義に通するもの数人を招き宴に侍し経を講ぜしめ、且ツ聴き且つ飲む、其の情に感し興に乗するに至りては撃節浩歌声林木に振ふ、 而して徐ろに千金を執事に附して曰く還て主家の為に謀れと、是より平八郎自ら謂らく昔魯 仲連魏の為に新垣衍に説き秦を帝とするの議を止めしむ、天下の義とする所也、今予林家の為に千金を擲て頼母子講の議を中止せしむ、事に大小ありと雖も其の大義たるに於ては敢て異る所なしと、是より自ら号して連斎といふ云々。
|
佐藤一斎云 往年後素来 江都謁林祭 酒過余舎而 不入、云、 此行為見林 氏不為見藤 氏故不入也 ト、盖シ此 時ノ事カ、 或ハ云フ門 人窪田英治 屡々先生ノ 上京ニ従フ、 行ケハ必ス 高井公ヲ其 邸ニ訪フト、 先生仕官ノ 説或ハ是ヨ リ訛伝ス。 此説代官根 本善左衛門 風聞書に同 じ |
大塩平八郎実記云 大塩平八郎は今隠居の身となりて閑逸の余、久しく音信
も絶々なれは東都へ下り彼の林家の安否を問はんと、門弟中へ其旨具に物語り、夫より旅の用意をなして出立ち名所古跡を見物し、年来の鬱を散し頓て帰阪なし、 我林家より余儀なき頼みを断りかたく承引て立帰りしも、中々以て我か微力にも及ひ難し、夫につき気の毒なから無尽を取立たく思へは迷惑 なから加入してと、彼の随順の者共へ頼みけるにぞ、 一同も師の頼といひ平八郎が平常の気質を知り居る者余儀なき次第と承引て守口宿の白井孝右衛門 は人も知りたる富家なれはと、是へ頼みて金五百両、猪飼野村主木村主馬之 助に金二百両差出させ、其外身元宜しき者へ夫々分限に相応し、百両、五十 両、三十両と段々出金いたさせける、 其節林家の表印また大学頭殿の裏印あ る証文数通を平八郎より銘々へ渡し、両三年は此証文の金高に応じ割戻せし も、其後平八郎皆々を自宅に招きて言けるは、先達て中頼み入し無尽の事に つき、大恩を請し師の頼みに黙し難く、各々へ無理なる無心を申入しか我何 とか師恩を報したしと予て思居し所なれば以来は我より返金すべし、 因て何 卒林家より渡し置れし御裏印の証文を返し給はるべしとの頼みに、皆々外な らざる義と承知せしに則ち林家の証文は皆般若寺村忠兵衛か名印の証文と引 替り云々
|
「大塩の乱関係論文集」目次