Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.9.3

玄関へ

大塩の乱関係史料集目次


「御触」(乱発生後)その16

『大阪市史 第4巻下』(大阪市 1913、1927再版)
「御触及口達」より



天保八年二月一九日、大塩の乱発生のあとの御触


補達585 同 日(五月廿八日) 時疫流行ニ付、町内限末々迄内々相達候様被仰渡候薬方之事、
 

時疫流行ニ付、此薬方之儀、追而江戸表より御書付を以可被仰出哉、御内々東御役所へ被仰下ゝ処、此頃市中専流行ニ付、惣御年寄中へ御内々御沙汰御座ゝ、右ニ付御救掛り町御呼、右御書付之写御見被下、不事立様外丁々江可相達旨被仰聞候、尤表向被仰出候迄者、町内限り末々迄、内々相達候様被仰聞候之間、此段御承知之上、早々御取斗可被成ゝ、以上

 但、御書附之写壹冊は掛り町へ相渡ゝ間、組合町々江早々御達可被成候、

 五月        御救掛り
             南鍋屋町
             百 貫 町


時疫救済
の薬法


時疫流行候節、此薬を用ひて其煩をのかるべし、

一 時疫にハ大つぶなる黒大豆(を脱)能煎て一合、甘草壹匁、水にてせんし出し、時々飲てよし、
 右医□ニ出ル

一 時疫ニハ茗荷の根と葉をつきくたき、汁をとり、多く呑てよし、
右肘後備急方ニ出ル

一 時疫ニハ牛房(を脱)つきくたき、汁をしほり、茶碗ニ半分ツゝ二度飲て、其上桑の葉一握り程火にてあふり、黄色ニなりたる時、茶わんに水四盃入、二盃にせんして壹度のミて汗をかきてよし、若桑の葉なくは枝にてもよし、
 右孫真入食忌ニ出ル、

一 時疫ニてねつ殊之外強ク、きちかひの如くさわきてくるしむニハ、芭蕉の根ヲつきくたき汁をしほり飲てよし、
 右肘後備急方ニ出ル、一切の食物毒ニ当り、またいろいろの草木のきのこ、魚(鳥脱)獣なとくひ煩ふに用て、其死をのかるへし、

一 一切の食ものゝ毒に当り苦しむにハ、いりたる塩をなめ、又ハぬるき湯にかき立飲てよし、
但、草木の葉を喰て毒ニ当りたるにいよいよよし、
 右農政全書ニ出ル、

一 一切の食物の毒に当りて胸苦しく、腹強くいたむニハ、苦(人脱)参を水にて能せんし、飲食を吐出してよし、
 右同断

一 一切の食ものにあたりて苦しむニハ、大麦の粉をかふばしくいりて、白湯にて度々飲てよし、
 右本草綱目ニ出ル、

一 一切食ものにあてられて、口鼻より血出て、もたへくるしむにハ、ねきをきさミて一合水にて能せんし、ひやし置て、いくたびものむへし、血出止迄用ひてよし、
 右衛生易簡方ニ出ル、

一 一切食物の毒ニ当り煩ふにハ、大つふなる黒大豆を水にてせんし、いくたひも用ひてよし、魚に当りたるにハ弥よし、

一 一切食ものゝ毒にあたり煩ふに、赤小豆の黒焼を粉ニして、蛤貝に一ツ程宛、水にて用ゆへし、獣のどくに当りたるにハ弥よし、
 右千金方ニ出ル、

一 菌を食当られたるにハ、忍冬の茎葉とも生にてかミ、汁をのミてよし、
 右夷堅志ニ出ル、

右之薬方凶年之節、辺土之もの雑食の毒にあたり、又凶年之後かならす疫病流行の事あり、其為に簡便方を撰(む脱)へき旨、依而被仰付、諸書之内より吟味いたし出ルなり、

  享保十八年丑二月    望月三英
                  丹羽正伯


右享保十八辛(癸)丑年飢饉之後、時疫流行致し候処、町奉行所へ板行被仰付、御料所村々へ被下ゝ写、

    ○御触帳には、六月七日付の年寄副書あれども御触書并承知印形帳には、町中家持の承知判形日付を五月廿八日とす、今之に従ふ、

    (御触帳)

「御触(乱後)」目次/その15/その17

大塩の乱関係史料集目次

玄関へ