その3
井形正寿
1989.3『大塩研究 第25号』より転載
乱後、五日目の二十四日の夜に大塩平八郎父子は美吉屋五郎兵衛方にあらわれている。幸田成友はこの時の状況を『大塩平八郎』のなかで「同夜五郎兵衛方では、平日のごとく主人は勝手の方、家内は台所または二階に打ち臥していると、五ツ時過ぎになって表の戸を叩く者がある、誰かと問えば備前島町河内屋八五郎方の使いだという。八五郎はかねて知合い故、五郎兵衛は何用かと起き上って雨戸を明けると、蝋色の木綿合羽に脇差を指した僧体の者両人、挨拶もなく足早に奥間に通ったので、不審に思い、跡を追って両人に面会いすると、あに計らんや平八郎父子であった」と書いている。
美吉屋五郎兵衛は多年大塩邸に出入し、勝手向の世話をしていた関係上、当日五郎兵衛は町奉行所から町会所へ呼出を受け取調べられたが、別段これということもないので、町預りとなって帰宅した夜に大塩父子は潜入してきた。この時、大坂市中や近郊では「草を分け、池・川・渕江は熊手を入、厳敷詮議在之」*9と大捜査が行われ、また一方では銀百枚の褒美つきで両町奉行の名で摂州・播州の津々浦々へ浦触れが出され、海路船で逃去るかも知れないので、廻船、便船とも厳重な警戒をし、大塩残党と覚しきものは留置して、大坂町奉行所へ訴出よと指令している。このような戒厳令下の市中を突破して、どのようにして美吉屋方に至ったのであろうか。不思議である。当局からマークされ他参止め、町預りの美吉屋五郎兵衛宅の宅番を当夜、町役人が過怠したために警戒線が突破されたとあるが、ちょっと理解出来ないことだ。
[注]
*9 大阪市立中央図書館蔵『浪花風聞誌』二巻「美吉屋五郎兵衛が事」の一丁
Copyright Masatoshi Igata 井形正寿 reserved