Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.31

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大塩の乱関係論文集目次


美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係

−大塩はなぜ美吉屋に潜伏したか−

その4

井形正寿

1989.3『大塩研究 第25号』より転載


◇禁転載◇

(四)

 大塩平八郎が美吉屋に潜入した動機は、大塩家と美吉屋五郎兵衛とは親戚同様の付き合いだけでなく、五郎兵衛夫婦の口書にも「平八郎時代より、年来立入、勝手向世話をもいたし罷在」*10といっていることからしても、大塩から特別に頼よりにされていたということになる。また、美吉屋宅が隠れ家にふさわしい場所であったのではないだろうか。それは「美吉屋の南は信濃町にして、境めに大水道有」*11「噂にては美吉屋隠居所と申所に、牀下(床 下)に石窟のおく、しつらい厳重に致したる所ある由、 27 兼ねて何の用意に致し成べし杯と申伝へ候」*12「(美吉屋) 宅裏に土蔵・隠居家有之裏町へ抜道有之由」*13「元来、此 の三好屋某は紋花布(サラサ)染工にして、大塩父子の暴挙に賛成 し………其の後堂に八分厚板もて厳重に四方を塞ぎたる 密室を設け地下に坑を通じて潜に出入往来するの便を供 するなど大に之が助勢をなしける」*14等という記録が多数伝わっているところから、幸田成友の『大塩平八郎』でも、大塩父子の捕りものの記述のなかで「裏口抜道の方を搦手と定め、五郎兵衛女房をして、主人町預りの身分とて、家財改め只今役人出張ありたれば、暫時裏口の方へ逃げたまわれと、平八郎父子に言わしめ、彼等の出ずるを待って召し捕る」段取りをしている。

 この裏口への抜道というのは、美吉屋宅裏の南側にある背割下水と称する下水道のことで、現在も幅員二メートルの大阪市道の下に、幅九〇センチ高さ一メートル近い暗渠の下水道が江戸時代の姿に近い状態で流れている。

 この背割下水を裏口ヘの抜道だとしたのは次のような理由による。美吉屋の屋敷の位置については、白井孝昌氏が『大阪春秋』第八号で「美吉屋五郎兵衛邸跡地の研究」でその成果を発表され、また米谷修氏が『大塩研究』第五号で「美吉屋五郎兵衛宅の復元と大塩平八郎父子の最後(上)」のなかで考証が尽されているとおり、美吉屋の跡地は現在の住居表示で大阪市西区靭本町一丁目十八番二十一号石本ビル、同町同番二十二号日紅商事の所在するところに間違はない。この現在の場所が大塩の乱当時と比べてさして街区は大きな変化はしていないと白井氏はその所論のなかで述べていられる。それは根本的な都市計画でもない限り大変化はないと見られているようだ。私も現地へ何回も足を運び、大阪法務局、大阪市の都市整備局及び下水道局の資料を閲覧した結果、白井氏と全く同意見である。

 大きな変化といえば、昭和二十年の空襲によって附近一帯が戦災地となったために、戦災復興の土地区画整理事業が行われ、江戸期から三間三分(六メートル)の美吉屋前の道路が八メートルに拡張されたことと、背割下水の用地が同じく幅半間(九〇センチ)だったものが、二メートルとなったことが大変化といえる。

 幅半間の背割下水を狭んで美吉屋側と裏側の家の屋敷があったわけだから、裏口への抜道ということは必然的に背割下水を指しているとしか思えない。それは、背割下水には護岸部分に水道浚えの泥土をあげる「犬走り」という幅約五〇センチ程の余地が背割下水の両側にあったから、区画整理に際し、この部分を含めて二メートルの市有地下水道用地にしたと市の担当者は話していられた。従って、当時の史料に裏口への抜道とあるのは、犬走りを含めた背割下水を指しているものと思われ、大塩が美吉屋宅を隠れ家として選んだのは、この抜道が非常の場合に役立つと考えたのもー因ではなかろうか。


[注]
*10 幸田成友著『大塩平八郎』(明治四十三年東亜堂書房発  行)附録五九頁−実録彙編初輯第七所載−に美吉屋五  郎兵衛夫婦の申口。またDの『大塩平八郎一件書留』  三一五貢に同夫婦の申口が吟味伺書に引用されている。
*11 原田伴彦・朝倉治彦編『日本庶民生活史料集成』第十 一巻(『浮世の有様』と以下略称。一九七〇年三一書房  発行)三四九頁
*12 大阪市立中央図書館蔵『塩逆述』七巻中の四丁に天文  学者羽間確斎が佐藤一斎に宛てた書翰の一節。
*13 *7の『大阪編年史』第十九巻九九頁
*14 永江為政編『商業資料』復刻版(昭和四十八年新和出版社発行)第一巻第六号−明治二十七年四月号−一五六頁


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