Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.3.30

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係

−大塩はなぜ美吉屋に潜伏したか−

その2

井形正寿

1989.3『大塩研究 第25号』より転載


◇禁転載◇

(二)

 当時の美吉屋の家族はつぎのとおりである。

 美吉屋五郎兵衛 六十二歳
 阿波脇町出身の塩田鶴亀助というものの子孫*1であると いわれ、また、この鶴亀助は大塩平八郎の祖父政之丞の養父*2であったから五郎兵衛は大塩家とは遠い縁者の間柄ということになる。そういう関係からか、五郎兵衛は大塩家には親しく出入し、勝手向の世話などをしていた。商売は染物屋であるから、乱に使用された旗、のぼりなどは五郎兵衛が染めたといわれている。

 五郎兵衛女房つね 五十歳
 つねは大坂鞠町、儀兵衛の娘で文化六年に五郎兵衛へ嫁入したと『浪華異聞』にある。また大塩平八郎の内妻ゆうの姉であるともいわれているが、一説には遊女をしていた時、ゆうと旧知の間柄であったという説もあるので、つねとゆうは真の姉妹であるというよりも、義理の姉妹と称するつき合いではなかろうか。しかし、ゆうは取調べに対し「父は泉州郡村不覚百姓、両親弟共家内四人相暮、幼少之節大坂北之新地大黒屋和市方へ不通養子ニ罷成、同人方ニて芸子働致し、其節平八郎と相馴染」と申口*3しているところからすれば、恐らくつねはゆうと一緒に茶屋渡世の大黒屋で働いていた親しい同僚ということではなかろうか。つねはかつて大塩家の下女であって、大塩平八郎の厚き世話で五郎兵衛に縁付*4たとかいわれているが、つねは「平八郎等江是迄面会いたし候儀無之」取調べに対し平八と面識のなかったことを申口*5している、これは甚だ疑わしい。一説に「五郎兵衛妻つねは、吟味のとき、ただ涕涙(ナク)ばかりして、一向わからず」*6とあるところからすれば取調べに際しては、かなり取り乱していたようだ。

 娘かつ 二十七歳
 大塩の乱当時の大坂城代土井大炊頭の家来時田肇が報告した書付に、美吉屋には「婿養子年来居、子供迄も有之処何之子細も無之、去冬致離縁、里方へ遣候由」*7とあるところからすれば、このかつの夫は入り婿で、子供(同人娘かく)を置いて夫婦は生き別れの離別となったようである。

 なお、美吉屋五郎兵衛夫婦の吟味伺書のなかに、同人宅の離座敷は元来五郎兵衛夫婦の隠居所であったという記述に続いて「倅病死後は本宅江引移、当時は明屋同然ニ付」*8とあり、この隠居所へ大塩父子をかくまったとあることからすれば、かつには兄(或は弟)がいたが、病死をしたので、婿養子をとったということだろうか。

 孫かく 八歳
 娘かつの子供(女児)でかく≠フほかにかう∞かか=i加賀)などとしているものがある。幸田成友は『大塩平八郎』のなかでかくとしている。

 このほかに次の使用人がいた。
 下女き ぬ 二十三歳
 下女さ く 十七歳
 下男次兵衛 二十歳
 下男次 助 二十歳
 下男佐兵衛 二十七歳
 下男忠兵衛 二十七歳
 下男富 蔵 十四歳

 なお、使用人も大塩父子隠匿の容疑で取調べられたが、富蔵を除いていづれも急度叱&x蔵は幼年につき不及咎≠ニなった。


[注]
*1 石崎東国著『大塩平八郎伝』(大正九年大鐙閣発行)二二頁に「塩田鶴亀助隠退後喜左衛門相続、検見役勤務中不埒の廉を以て永暇となり、大坂天満に移る。鶴亀 助死亡後山口善郎計て弟忠左衛門を跡目相続となす。忠左衛門大坂に移り没す年七十五と云う。美吉屋五郎兵衛は其後也」とある。
*2 の『大塩平八郎伝』二二頁に「政之丞生れて三歳同藩(阿波藩稲田家、家臣)塩田鶴亀助に養はる」とある。
*3 青木虹二編『百姓一揆史料集成』第十四巻(一九八六年三一書房発行)三一六頁
*4 *3の『百姓一揆史料集成』第十四巻三〇五頁
*5 国立史料館編『大塩平八郎一件書留』(一九八七年東京大学出版会発行)一三六頁
*6 松浦静山著『甲子夜話』三篇4(一九八三年平凡社発行)巻四十二の二八頁
*7 大阪市立中央図書館編『大阪編年史』第十九巻(昭和五十年同館発行)一〇〇頁
*8 の『大塩平八郎一件書留』一三七頁


 Copyright Masatoshi Igata 井形正寿 reserved


「美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係」目次/その1/その3

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ