Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.23

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大塩の乱関係論文集目次


石崎東国の足跡を追う

その1

井形正寿

2003.2『大塩研究 第48号』より転載


◇禁転載◇

はじめに

 大塩平八郎生誕二百年の九三年三月に、高知県(現在は神奈川県湯河原町)在住の本会創立当初からの会員横地祥原氏から突然のはがきを頂戴した。お便りは「昭和六年逝去の石崎東国先生のお墓が成正寺にありましたが、今はどうなつていますか、ご遺族の安否はおわかりになりませんか」という文面だった。

 石崎東国(本名石崎酉之允)の墓があったことは、成正寺の有光友信上人も初耳で、驚かれて早速、調査して下さった。その結果、寺の過去帳に「円乗院東国日精居士・昭和六年三月二十日享年五十九歳・石崎東国」と記載されていることがわかった。

 その後、氏となんども電話と手紙のやりとりをして、同氏は石崎東国の声咳に接せられ、後年師と仰いでいられる人であることを知った。横地氏と石崎東国との出合いは、同氏が『大塩研究』(三六号)で「石崎東国先生−わが弱年の思い出−」として書かれている。それによると、大正十年、横地氏の住所、大阪市天王寺区城南寺町(当時東区八丁日東寺町)と石崎の住居、同区餌差町(当時東区東高津北之町・旧制高津中学校西側)大阪陽明学会・洗心洞文庫にあつた。両家は直線で三〇〇b、横地氏は高津中学進学を志していたが、その至近の距離をさらに縮めたのは、洗心洞文庫の中学受験講習会の貼紙から、受講して見事、高津中学に合格となり、これが機縁で両家は家族ぐるみの親しい交際に発展していかれた。九十歳を超えられた横地氏は、いまも石崎東国を追慕し、畏敬されている。

 石崎東国の生涯には、不明の点が多い。赤貧のなかで大塩研究に一生を捧げられたことは教えられることが多い。石崎東国は明治四十年六月、大阪陽明学会創立に関与した。爾来、学会運営に心血を注がれた。この過程で石崎の名著『中斎大塩先生年譜(大塩平八郎伝)』が世にでた。しかし、石崎晩年の消息は誠に不透明で、不遇のなかで逝去された。

 私は横地氏からお便りを頂いて以来、各方面に石崎東国の資料提供をお願いしていたので、私の手許には、沢山な文献を寄せて頂いた。この人達のご厚意に酬ゆるために、現在わかっていることだけでも、中間発表させて頂き、空白の箇所は後日に埋めてゆくという方法を執ることに決心した。


石崎東国


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