Я[大塩の乱 資料館]Я
2008.4.24

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大塩の乱関係論文集目次


石崎東国の足跡を追う

その2

井形正寿

2003.2『大塩研究 第48号』より転載


◇禁転載◇

石崎の生立ちから陽明学会創立(1)

 石崎東国酉之允半生の経歴については、幸いにも石崎著「予の王学に入りし経路」(大正元年・同人著『陽明学派の人物』の最後の章)に自伝的に書かれた日付は、明治四十五年六月十一日と付記されており、文章の最後に「茲年予は三十八(歳)」となつているから、逆算すれば石崎の出生は、明治八年(一八七五)生れとなる。しかし、成正寺の過去帳では、昭和六年三月二十日享年五十九歳とあるので、明治六年生まれとなり、二年の違いがある。

 それでは、さきの「予の王学に入りし経路」からピックアップし、石崎東国半生の略歴を作ってみることにする。以下「  」はピックアップした箇所である。

  (石崎東国半生の略歴)

●明治八年(成正寺過去帳からすれば明治六年)石崎東国は茨城県水戸市の近郊で生まれた。「吾輩の土地は水戸城を北に那珂川を遡る五里、山間僅かに野州に通ずる一路あるのみであるが、それでも対岸野口には弘道館の分校時雍館もあつて、父などの青年時代は文武中々盛んなものであつた」とあり、現在の地図などで調べると、同県東茨城郡御前山村野口があり、その対岸の同郡桂村赤沢あたりが石崎の生まれたところのようだ。「山間 僅かに野州(下野国)に通ずる一路あるのみ」としているが、これは現在、水戸市から那珂川の右岸を通って宇都宮市に抜ける国道一二三号線の、前身ともいうべき道を指しているようだ。

●九歳の秋「初めて叔父の畠誠に就て大学の素読を受けた」

●十歳の暮「初めて正則に学校の門を潜つた」

●十三歳ごろ、「小学修身書で中江藤樹先生を初めて知つた」また、熊沢蕃山が藤樹に私淑・入門した話を聞き「勿論、当時陽明学者として云々というような事は知らない筈はないが、只藤樹・蕃山の名は慥かに少年の脳中に残つた。若し陽明学が文字の学でなく精神であるとすれば陽明の入門が此時にあつたといひ得ないでもない」と断言している。

●十五歳尋常四年卒業。この頃から、西南戦争から帰還した所透という、水戸学の将校に就いて勉学。「予が王陽明なる偉人の閲歴を読んだのが、十七歳の時と覚えている」陽明の名はこの先生によって知ったとしている。

●十七、八歳は水戸にいた。県の農業改良講習生に選抜された。「弘道館に出入して講義を聴たが、傍ら維新の政変は多くはここで研究した」「藤田東湖は回天詩以来の崇拝者である如く、種々読書に耽る中に其の随筆から大塩平八郎なる人物が有て、大なる働きもあつたが謀叛をした。謀叛をしたが決して悪い事ではないという様なことを読んだ」とあり、また、父が大塩は佐倉宗吾のような人であると言っていたので関心を持ち、その頃か ら「不思議に小学時代に臆病にして沈黙であつた予は弘道館時代より放胆にして冒険的性格に変化して来た」としている。

●十九歳「明治二十六年の秋には政治運動を初めた。陸奥外相の条約改正反対で例の尊王壊夷から割り出した排外思想の猛烈な説に出掛る。それが遂に二十七年春に消えたが、一時は地方を騒がした」

●二十二歳、遂に東京に逃げて来た。ここで「三宅雪嶺先生の『王陽明』*1というものを読んだ。それが我輩の初めて陽明学というものの系統的哲学を見たと同時に、近江聖人も蕃山も中斎も同学派の人であつたことを初めて知った」誠に幼稚なものだがと付言している。

 この頃、石崎は日清戦争の影響もあつて、功名をとるのは軍人であると考え、士官学校を志願したが、柔道で左肩骨折をしたので断念している。その後、職を求めて一、二年栗田寛*2主宰の「栗田塾へ入って国史を修むることにしたが、考証学も身に浸まず、早稲田に入って、政治経済科をヤツテ見た。それからは、生活問題と勉強とで、初めて見た陽明も続いて研究もせなんだ」「勿論、伝習録も輔仁舎で読んだが乱暴な我輩を覇束するには、尚ほ其師がなかった。兄は評して彼は多少の学問せなんだならば博徒侠客の群に一生を終わったであろうと言われた」とある。まさに、石崎にとっては、大変な青春時代であつたことが、目の前に浮かぶようだ。


管理人註
*1 三宅雪嶺『王陽明』明治26年 哲学書院
*2 栗田寛 1835(天保6)〜1899(明治32)、水戸市出身、歴史学者・文学博士。 藤田東湖らに師事、1880(明治13)年 家塾「輔仁学舎」を開く。


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