Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.3

玄関へ

大塩の乱関係論文集目次


〔今 井 克 復 談 話〕
その3

吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収


適宜改行しています。


 明治廿五年十月十二日午前九時五十分今井克復君臨席

 ○天保酉年飢饉の事

然ります所隠居の身分ではあり、天保七年に米価の高直なことがござりまして、其時は一石は三百目以上致して、小売は一升四百文も致し市中などにも餓死する乞食がたまさかにござりまして、随分容易ならぬ米価の進みました時で、其節には大坂の豪家鴻池善右衛門其外豪家大商米掛りの町人は夫々に救を出したり、身分相応の金米を出しまして、或は又些細な日用品を施す者、救にはいろいろござりまして、銘々勝手に奉行所へ申出ましたけれども、

平八郎は隠居の身分で自己に施金を致しました、夫れは自分の所持の書物を売払ふて其代価をやつたと申す事であります、高は知らぬが聊なもので、大坂で裏屋に居る者は多く貧民である、其裏屋の一戸に金一朱宛遣しました、壱朱は先四匁に当ります、

其時から人の心を取て慈善を見せる心であつたかと思はれます、施金を致すには奉行に申出ずして私にすることはならぬ規則で、誰れでも是非奉行所に申立つて、係りの者の手を経てやることになつて居るを知りながら密に致しました、夫れも大坂中に行届いたと云ふにあらず、僅か天満の近辺に居る者バかり位の事で、夫れを喜んで居つた者もござりました、*1

又其高価の最中に京都から大坂が安いと申て五升一斗位の端米を大坂に買いに来た者がある、夫れを奉行所で召取つたと云ふではなけれども、銘々支配違のものが入込まして大勢混雑があつたので、夫れを京都に送り還したことがある、夫等が奉行の不当とでも申して大塩の檄文の中にござります一廉で、ドウも其時の事を云ふ者は、唯々先づ一時米が高いに就ては万事八釜し、ふござりまして、

 ○大阪豪商の奢侈

大塩は大坂の豪家の奢りを悪みますが年来の事で、其時分には諸藩へ勤めます金主の町人は蔵屋敷詰の留守居、米掛りの役人から格別の仕向けを受け、或は亦出銀等に就ては其藩の用人徒頭格等に言ひ附かり居ましたものもござりまして、平常の行状が奢侈のみになつて、茶屋料理屋に行つて、役人と一処に飲み合ふを振舞と申て盛んなものでござりました、

左様な所は従来の仕来りとは云ひながら、米の高い時には不都合なもので、夫れに豪家の者共が、モ一つ施金を多く出さぬので、

 ○余談

  〔巡見〕

夫等も大塩の眼を着けます所で、所へ以て参つて自分も予て政治筋奉行の勤め前、即ち其時分の制度に就て色々批判を致し、高井より五人バかり奉行が変つて、其乱妨を起した時は跡部山城守、矢部駿河守の二人で、駿河守が参府して代りに堀伊賀守と云ふ人が大坂に参りました時で、奉行の交迭致して代る度には新に来た奉行が市中其外社寺市場所等を巡見いたします事が三度ござります、此時は同勤の奉行も同道いたします、

其巡見は今の区分ケの通北組、南組、天満組と三つに分れて、初度は北組、二度目は南組、三度目は天満組と云つて堂島の米市場、魚市 場、青物市場、天満天神等を巡見致し、其終りに与力町に廻り、与力町は元より官宅で一体の地所は官有で、居宅は後年自普請に成ました物で有ますから、此普請に過度はなからふかと奉行の見る為めで三度目の巡見の終りに与力町を廻つて、其中に迎ひ方と云ふものがあつて其宅にて休息をする事がある、

  〔迎方与力〕

此迎ひ方とか申まするは江戸表に於て奉行の役成りが有ますと直様其組の与力の総代と致して、与力一人同心二人、江戸まで悦びに参つて、他の与力より先に近つきになり居るものを迎方と云ひます、 是れは奉行奉職中、手許の事を家来同様に勤めますれバ、奉行とは別 して親しく成ります、其時の迎方は朝岡助之丞と云ふ者で、此れは跡部山城守の迎方で、巡見の時は此宅にて休息する事になつて、朝岡の宅は大塩に向ひ合て居りまする、

即ち二月十九日に三度目の巡見の日を予ねて定めてござりました、其十九日の夕方朝岡の宅で休息する所を、大塩から大砲で両奉行を討取る策でござりました、


管理人註
*1 大塩の施行の範囲は、摂津・河内の54ケ村。(岡本良一『大塩平八郎』p129)


有働賢造「川路聖謨と大阪」(巡見之次第)


〔今 井 克 復 談 話〕目次その2その4

大塩の乱関係論文集目次

玄関へ