Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.11

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大塩の乱関係論文集目次


〔今 井 克 復 談 話〕
その6

吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収


適宜改行しています。


 明治廿五年十月二十七日午前十時五十分今井克復君臨席

○天保八年丁酉二月十九日大塩平八郎変動の事実(続)附大塩父子隠匿露見の話○徒党所刑の事○大阪人心の動揺○徒党人数 ○檄文の趣意○大塩の子入牢の事○切支丹宗法厳禁○米価高直の事○大阪米相場の起因○大阪儒者中井後藤篠崎の話○頼山陽の話○大阪与力の格式○大塩著書の事


 ○天保八年丁酉二月十九日大塩平八郎変動の事実(続)
    附大塩父子隠匿露見の話

今井君(克復) 此程大塩の乱暴の手続きを一通り申上げまして、大坂の淡路町と云ふ所で跡部山城守が定番組の与力を引率して討払ふたところまで申上げました、

夫れは二月十九日の夕方の事で、大砲を撃立て、焼立てます最中でござりまして、全くコチラから小銃を連発仕りますると――向ふから大砲などを撃掛けましてござりますが、少しもコチラに当りませぬ、

其中に向ふの者を一人撃止めまして、其侭散乱致しまして、徒党の者は影を隠して一人も見へませぬ様似なりまして、夫れから右の討取ました者の首を槍に附けまして凱陣を致しまして、一時は夫れで鎮静を致しました、

焼けます所は焼け次第で、徒党取合の間は消防もせすせ、火は盛んになつて大坂の南本町まで焼けて、追々消防に掛ります様な事で、十九日から二十一日の夕方に掛けまして鎮火を致しした、

致しますと追々徒党に加つた者を捕縛仕りまして、段々に人を挙げて参りまして、中には大和、河内境の嶺で死んだ者もあり、所々で自殺した者もあり、唯大塩、父子はドウ致しても分らぬ、

中々其頃は厳しいことで、各藩近在容易ならぬ捜索でござります、池、井戸を改めるやら、深山へも人を入れて探しましたがドウモ手掛りがつきませぬ、大塩の踪迹はサツパり分りませぬ、

或は薩摩へ行つたであらふとか、或は北国へ行つたであらふとか云ふ風聞がありまして、大抵ドコゾで死んて仕舞ふたであらふと云ふことになつて居つた、

夫れが風としたことから三月二十六日に知れました、

其知れました手続きと云ふものは、其頃大坂の城中に土井大炊頭と云ふ人が其頃の城代でござりまして、是れは御承知でもござりませふが下総の古河で、八万石の城主でござりまして、其領分の飛地で大坂の近在の――漸く五十町バカリ巽の方に平野と云ふ所がござりまして、夫に土井家の陣屋がござりまして是れは一万五千石もござりますが、

其平野と云ふ所は、通常の村落と違つて卿名町名抔有つて元和の戦争の時、焼討の有ましたところで、土井家が城代と為つて勤番を致すなり、其平野と云ふ所から総て会計を引請けまして、七名家と申旧家の中にて費途を賄ひます、其平野と云ふ所は僅の家の所でござりますけれども其頃の米価の苦情を言ひ、郷村の百姓其他の者が打寄りて、其事を話して居る折柄で、

風と聞出したは大坂の油掛町と云所に美吉屋五郎兵衛と云ふ者があつて、夫れに爺と婆と外に二人暮らす更紗の形置職の者がある、其婆は大塩に縁故があつて、前年大塩に使はれたことがあつて、是れも大塩に手続きのござります者故、政府から疑を入れまして、其美吉屋五郎兵衛を呼出して糺したことがあれとも、一向実を明かさなかつたものと見へて――全く美吉屋に父子潜伏致して居つたもので、

其平野から美吉屋五郎兵衛の宅へ一人下女が奉公に来て居て、 其下女が三月の出代り時に暇を貰ふて平野へ帰つた時に、其女が申した事を、其村中の寄合の折柄話した者がある

夫れはドウいふ事と言ふと、コチラから女が奉公に行つて居るアノ油掛町の美吉屋五郎兵衛に居つたところが、其家で炊く米が家内の割合に多い其女も不思議な事と思つて勤めて居つたが、夫れを毎日神様に供へると言つて婆が持つて行く夫れがドコへ持つて行くか分らぬ、供へるならバ下ることがあらふがと思つて居つたが、其炊く米が残らず一日に費へて居つた妙な家も有るものと思つて居ると、

夫れが其寄合の席で話が出て、夫れは此節柄妙な事と云事を、前の七名家の一人末吉平左衛門と又中瀬九郎兵衛と云ふ二人が其事を承りまして不思議な事がある、若し大塩の捜索に就て参考にもならふかと云つて平野の陣屋へ申出ました、

陣屋は郷内の全く役所でござりまして、土井家の家来が詰めて居りますが、取敢へず大坂に申出て大炊頭に申聞ましたところが、予ねて大坂の城代には町与力を東組より一人、西組より一人立入する者があつて、常に用向きがあれバ其家来より達することがあります、

折柄堀伊賀守の組与力内山彦次郎と云ふ者が立入ゆへ、夫れを呼出しまして尋ねましたところが、

夫れは既に町奉行の方で、度々大塩の踪蹟を尋ねますもので、即ち大塩の係りがござります、故に他参止めを申付てある者で、此他参留と申ますは身分にかゝりがござりますものゝ糺問中の足留めでござります、夫れは恐くは夫れに相違なからうと云ふことで、

美吉屋五郎兵衛を竊かに呼出して其女の言つた事を申て糺問致しましたところが忽ち白状致しまして、其頃は其親爺は六十位、婆は五十五六の者で全く相違ござりませぬ、

ドウしてソコに置いたと云ふものは、元々大塩は旧と捕縛もの探索の筋を知つて居る者であるから、高く遠方へ飛んでは足がつくことを知つて居るから、十九日淡路町の討払ひの散乱から散乱して五郎兵衛方へ来たのは二十一日の夜でござります、

夫れまではドウして居つたかと申しますのに、大坂では大火の時には諸道具を船に積出しまして河中にて火を避ます事がござります、上荷船又は茶船と申を雇ふて夫れに道具を積込みて、河中に留めて置きますれバ盗難も遁れまして、火の為めにも安心でござりますから、鎮火迄河中に居ります事で、其諸人の火を避けて居ります川の中に別船でも雇ふて紛れ込んで居つた様子で、

十九日から二十一日まで難波橋の下に潜んて居て、二十一日の夜に至つて美吉屋へ行つたものて、其時は五郎兵衛は再三断つた様子であれとも種々脅迫し、我は切支丹を行ふから注進でもある様な事があれバ必ず知ると云ふことで、五郎兵衛は義理もあれバ断切れず匿つて置きましたもので、

夫れが顕はれたは三月二十六日の事で、町奉行の方には知れませす、却つて城代の方から前に申ました手続きより知れまして、夫れから捕縛の手順と定めました、

又土井家の方でも捕手を出さるゝことになつて是れは右の内山彦次郎が主となりまして二十六日の夜に其近辺を囲みまする手 配りを致して、其時若し火を掛ける様な事があるか知れぬと云ふことで、私共は予ねて町火消を委任されて居りましたから――伊賀守から密に掛り三人と定めました、

私は其頃官之助と申しました、同僚比田小伝次、永瀬七三郎と云ふ者と三人で隠密にして、消防の方にも内意を申聞かせまして、美吉屋五郎兵衛の宅の近傍に出張致しまして消防の要具と持寄りて待つて居りました、

二十六日の夜はさういふ手配りにかゝり尽くしまして、二十七日の朝内山彦次郎が先立つて、土井家の人数其他捕方同心手先の者共凡そ五十人程美吉屋へ向いまして全体直ぐ踏込みまして補へれバ捕へられぬではなかつたが、狭き六ケしい路次で――奥は中二階の六畳敷位の所で、娑に案内をさせて行くところが二人と並んで逞入れぬから其戸と叩きまして婆より捕手の来た事を報じましたところが、

直ぐ平八郎は其居る所の雨戸を明けて彦次郎と向ひ合つた、すると短刀を投げつけたところが、夫れが当らずすして、直ぐと雨戸を占めました、其際大勢押入らふとする処が、予ねて用意して有つた劣のと見へまして何だか機械仕掛の様に直くと火が出て寄り附けぬ、其時私共は出張致して居る手先の者数人消防に取掛りました、

ところが火は家内に満ちまして暫手間取りました、漸く夫を消し止めまして、上に焼け抜けた丈けであつたから、下の方には焼木が打重つて居た所を、段々取除けまして見ますと、焼木の縦横になつて居る下に両人共居りまして、刀で喉を貫きまして平八郎は俯伏しに成て居ました、

格之助も胸を貫かれて居りました、力もなく自殺の体ではなく平八郎にでも殺されたかと思ふ様に存じました、

其死骸を引出しましたところが、剃髪して坊主になつて居る、

其死骸を消防頭の吉兵衛と云ふ者が取り出して私共の面前に持出しましたから、大勢立会て改めました所が、其死骸を牢役所に送らねバならぬところが、程宜い物もないところから、其五郎兵衛の向へに三宅画と云ふ医者があつで、其方に私が行つて駕籠二挺出させて夫にて死骸を牢役所に送つたことで、

夫れが全く平八郎の終りでござります、何だか後に薩州に落ちた抔と言ひますが正しく其死骸は私が取扱ツて居りますから少しも相違のないことでござります、

八木君(雕) 其死骸は真黒になつて居りましたか、

今井君 首か脹れ上て肩と一様になつて、頭の無い人かと思つた、蛙の様なもので、上に引上げて見ました時は、脹も引て面体は鮮かに分つて居る、

彦次郎は始めに見留ました時、其投出した脇刺は年来同僚で有た故見覚への有るものでござりました、

格之助は反ツ歯でござりまして夫れも其歯をムキ出して居りました、

全くの死骸は夫れ丈けでござりまして、夫れから追々に方々の連判の者其他徒党の外に、色々掛りの者があつて大砲を拵へた者やら兵具を言付つて致した者やら、係りの者が大勢ござりまして、其一件の調べに逢ツた者は百二三十人もござりました、

全く其徒党の者と云ふ者は二十三人程でござります、夫れから後とで江戸表へ調べが廻つて、其年の十一月 *1 に刑に処せられました、

其時は磔刑になりました、其間は大分あつて、自殺した者などは皆塩漬に致しまして、桶の中から首丈けを出しまして、夫れ を大坂三郷の町を引廻はした、

其中残つた者は竹上万太郎、若党三平の二人で後とは死んだ者バかりで、其死骸を磔に致しました、住吉に鳶田と云ふ所がある、夫れに二十三人の死骸を三日間曝しました、

岡谷君(繁実) 其火を発したは煙硝でありましやうか、

今井君 其様であります、誠に速かに発しました、消防と云ふ者は、私共十人程仲間が ござりまして、夫れが旧来引受けになつて居ります、大坂を五つに分けて上町、西船 場、南船場、北船場、天満組の五つに分けて、千五百人程でござります、煙の出ぬ先から待つて居つて消したは始めてゞござります、誠に平八郎の父子の終りの見へます までと云ふものは、人気が落ちつきませぬで騒々しくござりましたが、先つ夫れで 大に人気も柔ぎまして、其時の事は只今から見れバ小いが、騒ぎはヒドイことでご ざりました、

八木君 焼けたは其家丈けでありましたか、

今井君 五郎兵衛の宅も焼けました、


管理人註
*1 裁決は、天保9年8月21日、磔は9月18日。


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