Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.12

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大塩の乱関係論文集目次


〔今 井 克 復 談 話〕
その7

吉木竹次郎速記 『史談会速記録 第6輯』 史談会 1893.7 所収


適宜改行しています。


 明治廿五年十月二十七日午前十時五十分今井克復君臨席

 ○徒党所刑の事

岡谷君 五郎兵衛の処分は如何なりました、

今井君 二十三人の磔罪の中でござります、

岡谷君 ヒドイ残刻なものでござりますネー、二十三人の中二人残して後とは皆殺したと云ふのは、

今井君 左様でござります、自殺した者が十何人あります、夫れは同心に近藤梶五郎と申者か、自宅類焼跡へ立帰りて自殺した、同心渡辺良左衛門と云ふ者、是れも全く加担の者で大和の山中で死にました、

岡谷君 鉄砲を誂へましたのが能く知れなかつたものでありますネー、

今井君 夫れは試しがござりますものですから、御用に事を寄せて誂へたものであります、

八木君 槍を五本あつらへて、夫れが注文に違ふと言つて、又拵へさせ前の槍も買置と云ふ様なことで兵器を沢山にあつめたと聞ました、

今井君 多くは木砲で唐鉄の砲は二つ程ある、夫れは試しに仲間で使ふものを取寄せましたものであります、

 ○徒党人数

寺師君(宗徳) 真に徒党の者は何人位でありますか、

今井君 二十二三人であります、

寺師君 手伝の者は何人位でありまするか、

 ○檄文の趣意

今井君 檄文に――今日は檄文は持つて来ませぬが、檄文の主意は、米価高く諸民が難渋するのを政府が行届かず、大坂の豪家は鴻池を始め歴々の者が施した高が少くて、自分の存じ程無いと云ふのが申分で、大体の主意は王政復古と云ふ事が本になつて居るが、復古は其比の儒者は皆な言つたもので、今の封建制の世ではドウもいけない、約り王政でなけれバ、いかぬと云ふは漢学者は皆な言つたもので、大塩の言つたは珍らしいことでない、王政回復、諸民救助丈けでござります、

夫れを檄文に致して豪家が奢りに長じて、此の諸民の困究の時憚りもせずして奢侈を極めて居るのは憎い仕業であるから、豪家の貯へて居る金を取出して諸民に分けて与へて遣らふと云ふことでござります、

夫れ故に大坂の騒動と云ふことを聞けバ大坂に集れと云ふことでござります、心得ぬものは只集りました斗、

岡谷君 幾日程前に檄文を出しましたか、

今井君 幾日程前か分りませぬが、大抵の事は知れるのに、其檄文の事は知れぬ、些細な事まで知れるが、其檄文に限つて知れずに居ました、

岡谷君 大塩の名がござりますか、

今井君 名はござりませぬ、隠士某とあります、乱暴の原因々々と言はれますが、原因はない、

 ○大塩の子入牢の事

早川君(勇) 旗が有つた様子、

今井君 湯武両聖王中に東照大権現又別に救民と書いた旗を一つ、自分は甲冑を着て大砲を引く者がございませんゆへ、火事の見舞に来る者抔多い、其往来の者を捕まへて之を引せました、引きます者は暫時引きて逃けたとか云ふ様な事で、皆烏合の者で、

大塩の此挙を談しました者は河内の般若寺村に橋本忠兵衛と云ふ者がある、是れは大塩の貰ひ娘の親で、其貰ひ息子の格之助の妻に仕やふと云ふ積りであつたを、平八郎が妾にして男子が一人出生すると今川家の後胤と唱へて弓太郎と云つた者か有ました、

二歳斗ゆへ乳母を付て牢中に置ました、是は十五歳の後遠島の筈で、半年斗居て死ました、*1

寺師君 家族はドウいふ処刑になりました、

今井君 家族は遠島かに処せられました、

八木君 妻はありますか、

今井君 妾でござります、ゆうといふ者がござります、ゆうといふ者は逃げて般若寺村に帰りました、この忠兵衛は大塩を信じて居つた者で、夫れに渡辺良左衛門と云ふ同心がある、此れは賛成人である、

早川君 大和から一人般若寺村に尋ねて行つた者がある、即ち格之助の妻に仕やうと云ふ者が、おゆうか、

今井君 格之助の妻にすると申て貰ひました忠兵衛の娘はみねといふ者であります、

八木君 格之助は養子でありますか、

今井君 大塩の隣りの西田青太夫といふ者の弟で、是れは二十二三の者で一向用にたゝぬ者で、大塩とは大違ひである、


管理人註
*1 弓太郎は「大坂永牢」処分。


甲子夜話 処刑図

処刑図 『甲子夜話』 (松浦史料博物館蔵)より


檄文
「処刑図」拡大図


〔今 井 克 復 談 話〕目次その6その8

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