Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.18訂正
2000.7.4

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その1

猪俣為治

『朝日新聞』1898.9.16 所収


朝日新聞 明治三十一年九月十六日
大塩平八郎 (一) 猪俣生

  小引

平八郎が徳川の弊政を憤りて浪華城下に焚死せしより茲(ここ)に六十年、この間幕府倒れて明治政府興り、憲法ハ渙発され、代議制は施行され、人々掌を拍ちて与論の世界、自由の天地と歓呼せざるハなし、然れども閥閲専横の弊未だ全く去らざるに富豪兼併の害既に生じ、識者も亦漸く時代の解釈に迷はんとす、世人若し此際に於て新眼光を以て丁酉の変乱を看取するあらバ、スヒインクスの謎語必らずしも解釈するに難からずして、平八郎も亦旦暮に其知己を得たるなり、吾人の今日に於て平八郎の伝を艸する所以のもの、徒に好古学者に擬して彼の歴史を褒貶せんが為に非ずして、目下の時勢に副応すべき一段の新主張、新動力を彼の言動中に求めんが為のみ

  其一 平八郎の祖先

人の偉人豪傑の祖先を知らんと欲するの情に切なるハ、其れ猶ほ大河巨川の源頭を知らんと欲するの情に切なるが如き歟、今夫れ茲に浩々汨々(かうかうぺきぺき)、地を裂き天を拍ち、一瀉千里して海洋に朝崇する太河あらんか、人其奔放澎湃の状に驚駭すると共に復た其源流ハ何れの山嶽に発し、其積勢ハ何れの江湖より得たるから知らんと欲せざるハなし、然れども造化其秘を護して太河の源流容易に知り難きが如く、偉人豪傑の祖先亦往々にして遺忘の谷に埋まり、其系統流脈茫として極め易すからざるものあり、今や吾人ハ偉人大塩平八郎の伝を草せんとするに当りて殊に其然るを見るなり、

然れども人の嘖々岷山を称するに至りしハ黄河の大なるを知りたる後に在り、又ヴエクトリア、ナイアンザ湖の有名なるハ ナイル河の源頭たるが為のみ、然らバ太河の源流を知るの前、先づ之を想起せしむる所の太河を知らざる可からず、偉人の祖先を知るの前、先づ之を追思せしむる所の偉人を知らざる可からず、故に今吾人筆を平八郎の伝記に染むるに当りて、専ら彼の性情履歴を世人に紹介するに勉め、其祖先の如何の若きハ草々略叙して足れりとせり、是れ軽重緩急の勢に於て自ら然らざるを得ざるなり、若し夫れ既晦を彼れの祖先に闡発し、明徴確信、寸々にして之を求めて些の錯誤なきを期するが若きハ、人既に平八郎の履歴行状を知り、彼を景慕し、彼を崇拝し、延いて其先系を知らんと欲するの念を起したる後たらざる可からず、

天正十八年に於ける小田原戦記を読みたるものハ必らず家康の旗下に北条の将足立勘平を足柄山に刺したる一勇士某あるを記憶するならん、某は今川波右衛門と呼び、今川氏真の子なり、桶峽の役今川義元の織田信長の為に滅ぼさるゝや、其子氏真暗弱にして父祖の領土を保つこと能はず、屡々武田信玄の為に彊域を蚕食せられて遂に遁竄の客と為れり、其妾(せふ)に一男子あり、是則今川波右衛門なり、彼れ多年萍転蓬移するの後、遂に徳川の臣松平甲蔵、本目権右衛門、尾崎衛門等と相識るに至り、彼等の薦に因りて参州岡崎に至りて贄(し)を家康に執れり、既にして彼れ小田原の戦功ありて弓を賜はり、且つ邑を伊豆の塚本村に食むことを得たり、家康天下を治むるに及びて、彼れハ越後柏崎の定番に補せられ、未だ幾ならず家康の子義直に随ひ、尾張に至り、禄二百石を食む、後姓を改めて大塩波右衛門と称し、寛永二年二月を以て卒す、波右衛門に二男あり、次子を政之丞と称す、元和年間に大坂の与力と為り、相伝へて偉人平八郎の養父たる平八郎に至れり、是大塩家系統の概略なり、

本伝の主人公たる平八郎ハ、阿州蜂須賀公の家老稲田九郎兵衛の臣、美馬郡岩倉村に住する真鍋市郎の二男にして、初め大阪の親戚塩田喜左衛門の養子と為り、後故ありて之を去り、天満町の組与力たる前記の平八郎に養はる、是彼が七才の時なり、彼が平八郎の養子となりて未だ久からざるに養父平八郎病歿す、爾来彼ハ教養を養祖父政之丞に受け、養祖父歿するに及びて則ち承祖の孫として其家職を継げり、

或ハ曰く、平八郎の父己れに子なきを憂へ、京都阿弥陀ケ峯の豊国神明(明神)に祈りて一子を挙ぐ、是を偉人平八郎と為すと、然り、平八郎ハ養子に非ずとの説は幾分か拠る所なきに非ざるが如し、一説として之を存じて可なり、但豊国明神の祝子たるの一事に至りてハ、吾人之に対して如何の評を下す可きかを知らず、秀吉の生るゝや其親之を神に祈ると称せられ、正成立毘沙門天の祝子と称せらる、古より偉人豪傑の出生に関してハ、多少怪詭の説之に伝会して以て其人物を神にせざることなし、故に吾人ハ此祈願の一事に関してハ、唯平八郎が世人に偉人視せらるゝ証として之に耳を傾けんのみ、


大塩平八郎関係年表


猪俣為治「大塩平八郎」目次その2

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