Я[大塩の乱 資料館]Я
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2000.7.5

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その2

猪俣為治

『朝日新聞』1898.9.17/18 所収


朝日新聞 明治三十一年九月十七日
大塩平八郎 (二) 猪俣生

  其二 幼時及び修学

平八郎、姓ハ大塩、名ハ後素、一名正高、字を子起と云ひ、号を中斎、室を洗心洞と称す、彼の生年月ハ歴史之を詳にせず、然れども彼が退職せし時ハ天保元年にして、此時彼ハ三十七歳なりと自白したるより推考すれバ、彼ハ寛政五年に生れたるものならざる可からず、寛政五年ハ紀元二千四百五十三年にして、即ち光格天皇即位第十三年、家斉将軍の就職第八年なり、

古より偉人豪傑の幼時を記するもの、必ず一種の形容詞を用ゆ、曰く生れて頴悟、曰く幼にして卓犖、曰く何、曰く何と、吾人ハ平八郎が后稷の如く、生れて岐々然嶷々然たりしや否やを知らず、又商臣の如く、【逢/虫虫】目(ほうもく)にして豺声なりしや否やを知らず、然れ共彼が後来威風堂々、新梳の後と雖も【髟/丐】髪(きつぱつ)刀騒して膏を用ひざるものゝ如く、人と語れバ叱咤慷慨、聞く者をして奮【足卓】(ふんたく)興起せしむる概ありしと云ふに拠れバ、其幼時に於て既に東坡の所謂食牛の気ありしハ決して疑ふ可からず、甞て街上を行き、商家の二丁稚の途上に担荷を抛ち、拳撃格闘するを見、走り近づきて二童の髻を握り、汝等何ぞ其主用を忽にして私争に勇むや、速かに止めずんバ吾当に為す所ある可しと叱咤一番するや、二童之に驚き争を止めて倉皇謝し去れりと云ふ、是吾人が彼の成童以前の逸事として聞く所なり、

平八郎の句読の師ハ何人なりしか今之を詳にするを得ず、或ハ曰く彼幼時中井氏の門に学べりと、是或ハ然らん、何となれバ中井甃庵が其師三宅石菴に代り、官に乞ふて懐徳書院を大阪に建てしハ、恰も享保十五年にして、当時大阪に於て書を読まんとする者ハ、概ね皆此に来学せざるハなく、其子竹山箕裘を継ぎて講学に従事し、延て文化十三年に至りたれバなり、又吾人ハ平八郎が元珍の如く八歳にして詩書を誦し、任廷の如く十二歳にして春秋易に明かなるの才調ありしや否やを知ず、然れども天保の乱後彼の党与捕はれて吟味に遭ふや、忠兵衛なるものハ平八郎が十六七歳の時其門人と為れりと白状し、又竹上万二郎 *1 なるものハ平八郎が十八九歳の時其門人と為れりと白状せり、是に因りて之を観れバ彼ハ十七八歳の時既に居然人師たるの学識を有するを知る可く、其幼にして嶄然頭角を見はすこと既に此の如きものあり、而して其武術の若(ごと)きも、亦精力を致す所にして、殊に槍術に至りてハ関西第一の名あり、幼より研鑽衆に過るに非ざるよりハ焉ぞ能く此に至らん、平八郎は東都に遊学せるの一事に就てハ、諸説一定せず、或ハ平八郎ハ与力見習と為りたる後破損奉行と争論して東都に走りたりと云ひ、或ハ彼ハ北新地の遊女に溺れ人の之を規するや深く感激して一時与力を辞し東都に行きたりと云ふ、而して其時或ハ十五歳なりと云ひ、或ハ二十歳なりと云ふ、又其滞在年月の若きも或ハ以て五年と為し、或ハ以て三年と為し、真偽考ふるに由なし、故に吾人ハ彼の歴史に於ける此間の挿説として、唯普通人口に膾炙する一事実を取れるのみ、デクインシー氏曰く、古来より偉人豪傑に関する逸事ハ、多く信ずるに足らずと、想ふに此一事或ハデ氏をして知言の名を成さしめん歟、

平八郎は東都に遊学せんと欲し一僕を伴へて大阪を発せり、然るに東海道水口駅に達する頃ひ、偶々彼と相前後して来る所の一旅客あり、彼に近づき接して寒喧を序し、旅苦を慰め、頻に慇懃の意を通ず、平八郎年少、未だ世故に通ぜず、遂に之と親しみ、其夜即ち水口駅に同泊せり、其翌日に至り鶏鳴に起き、急卒旅装を整へ、三人相拉して路程に上れり、前途ハ則ち有名なる鈴鹿山にして、山路崎嶇として老杉怪松路を掩ひ、白昼と雖も、尚ほ人の独行を憚る所なり、稍山麓に近づくや従僕急に足を頓てゞ曰く、吁、袱包を遺忘せり、乞ふ急馳して取り来らん郎君幸に暫く嶺下の茶店に於て之を待てと、乃ち倉皇として去る、然るに平八郎ハ之を待たずして旅客と共に歩を山腹に進む、時に旅客一小径を指して曰く、是捷路なり、乞ふ此より往かんと、乃ち平八郎を誘ひ行くこと一二町、山愈々深く、路愈々嶮し、忽ち一箇の大漢樹林の間より顕はれ出づるあり、曾て旅客と相諜知するものゝ如く、共に近き来りて平八郎の左右に迫る、


管理人註
*1 竹上万太郎 のことか。


朝日新聞 明治三十一年九月十八日
大塩平八郎 (三) 猪俣生

  其二 幼時及び修学(続)

大漢先づ曰く、頑童汝の衣服と財嚢とを卸して去れと、平八郎之を聞くや唖然大笑して曰く、賊人若し年少の故を以て予を侮らバ必ず臍を噛むの悔あらんと、昂然身を挺して進む、両賊益々迫る、是に於て平八郎勃怒一声、旅客に扮せる一賊を谷中に蹴落し、他の一賊を路上に撃倒し、急に刀紐を取りて之を傍樹に緊縛す、賊哀請措かす、因て平八郎其不良の行を責め、勧むるに善に帰し正に復す可きを以てし、遂に縛を解きて之を放てり、適々従僕の漸くにして追跟し来るあり、此事を聞きて其勇猛なるに驚歎せり、

中江藤樹先生甞て夜間郊外より家に帰らんとするや、数人の賊徒迫りて金を求む、時に先生之に答へて曰く、姑らく之を緩うせよ、吾其授くると授けざると孰れか果して是なるを慮からんと、乃ち叉手瞑目、少頃にして曰く、吾之を慮るに仮令(たとひ)戦つて利あらざるも、軽しく金を汝に与ふるの理なきを知ると、乃ち刀を撫して起てり、伊藤仁斎先生も亦甞て郊外に夜行して賊に逢ひしことあり、時に先生乃ち曰く、汝輩常に何を以て業と為すや、賊曰く、昏夜に横行掠奪して以て自ら給す、是其業なり、先生曰く、其業既に斯の如し、吾復た何ぞ拒まんと、轍ち衣服を脱して以て之に与へり、一ハ熟考の後其与ふべき理なきを知りて之と戦はんと欲し、他ハ従容として其穿つ所の衣を脱して辞せず、平八郎の年少なる復た何をか知らん、唯満身の気胆抑へんと欲して抑ふる能はず、挺身蹴撃、以て直截簡易の道に出でたり、而して其不良を戒め之を放ち去るが若きハ、亦儒家の子弟たる面目を存するものと云ふ可し、

斯くて平八郎ハ其従僕と共に東都に着し、先づ親戚某を訪ひ、語るに今回東下の意を以てし、某の紹介に因りて林氏の家塾に入れり、林衡松平能登守乗蘊の二子にして、幼名を熊蔵と呼ぶ、寛政五年林大学頭信敬歿するや、彼れ子なきを以て、松平越中守衡に命じて其継嗣たらしむ、是を九世の祭酒林述斎と為す、当時林祭酒ハ昌平黌に於て、林百助、柴野彦助、尾良(をよし)良助、古賀弥助、岡田清助等の儒官と共に旗下の子弟に講授し、又八重洲河岸の家塾に於て、天下の有志を招徠し、以て専ら当時の俊髦を教育せり、平八郎林塾に入るや刻苦励精して道を学び、其の行の方正にして其進歩の速かなる、常に儕輩を凌げり、是を以て林祭酒も大に望を属し、他の群生を誡むるや必ず学問躬行宜しく平八郎に則るべきを以てせり、平八郎ハ又学問の余暇を以て力を武術に用ふ、刀槍弓銃悉く其技を修め、殊に槍術に至りてハ其奥秘を極め、後来関西第一の誉を取るに至りたり、

蛍火窓雪茲に数年の功を積むや、平八郎ハ其学益す長じ、其識益々高く、隠然同輩を圧するに至れり、是に於てか同輩中、無頼の狡童往々にして彼を嫉妬し、彼を凌辱し、彼を困厄せしむること啻(たゞ)に一再のみならず、陽春三月、桜花爛漫の候、彼れ狡童三五輩、相謀りて平八郎を墨陀に誘ふ、平八郎亦甚だ之を辞せず、彼等と共に焉に赴く、何ぞ図らん彼等匆々(さうさう)墨堤の看花を了りて、平八郎を北里に伴ひ、江戸街の松葉楼に登り、酣歌酔舞を極む、平八郎固より酒を使はず、又脂粉を喜ばず、先刻より悄然傍坐彼等の狂態を疾視せしが、彼等が共に寝に就くに及びて灯下に【石乞】坐(こつ)して考ふる所あるものゝ如くなりき、翌朝会計の時に至り財嚢欠乏、清算すること能はず、彼等乃ち平八郎に謂て曰く、吾等是より去りて金員を調達し来らん、君幸に此に質たれと、乃ち悉く廓を出で去りて復来らず、平八郎空しく待ちて翌日の黄昏に至り、終に茶屋に談じて曰く、余は林家の塾生なり、一人を余に尾して来らしめよ、必ず負債を弁ぜんと、乃ち責奴を拉して八重洲河岸に帰り、金を調へて之を付せり、林祭酒平八郎を召し詰(なぢ)るに外泊の理由を以てす、彼れ深く之を謝し、且つ懐中より数枚の草稿を出し之を捧げて曰く、是我遊蕩中の獲物なり、先生幸に雌黄を加へよと、祭酒之を観れバ則ち百韻の吟なり、祭酒ハ笑ひて復他を言はざりき、蓋し祭酒ハ彼が友に欺むかれて茲に至りたるを知れバなり、頼山陽十七歳の時、友人と戯れに賭し、線香一【火主】を燼了する間に漢土歴史中の人物廿四人の賛を作り、祇園南海亦十八歳にして才を試み、一夜に百首を得たるハ当時芸林の嘖々する所、一夜百韻の吟を為せる平八郎の才思亦凡ならずと云ふ可し、平八郎東都に留学する数年、其才学益々進む、祭酒も亦特に彼を鍾愛し、彼にして一たび帷を上国に下さんか、余も亦聊か面目を施すに足れりと喜べり、然るに大阪の親戚より祖父重症に罹れりと の郵書を送致せるを以て、平八郎ハ倉皇旅装を理して大阪に帰り、祖父の床下に在りて、慰藉看護、医薬奉養、一日も怠らざりしかど、祖父の齢既に古稀に近きを以て、慈孫の誠心を酬ゆるに至らず、終に世を逝れり、是に於て平八郎職を継て天満の組与力と為れり、*1


管理人註
*1 祖父政之丞歿は、文政元年、平八郎26歳のとき。


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猪俣為治「大塩平八郎」目次その1その3

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