その10
『朝日新聞』1898.9.28 所収
朝日新聞 明治三十一年九月廿八日
大塩平八郎 (十二) 猪俣生
此歳の九月に至り、平八郎ハ尾張に赴き、其祖先の墓を展して宗家大塩氏に留まること数十日、帰路、竜田、高尾、栂尾の諸勝を捜りて帰れり、是一ハ以て簿書期会の為に妨げられて、久しく其志を果す能はざりし追遠の礼を行ひ、一ハ以て積年の紛思を一掃して、其胸裏を洗滌せんが為なり、彼が此行別に詩文の以て見るべきものなしと雖、其祖先の墓畔に徘徊顧望してハ、則ち茫々三百年の往昔を追想して、思を桶峡原頭に繞繚せしめたるなるべく、其龍田高雄の諸勝に遊び満目の紅葉を観てハ則ち所謂る似焼非因火、如花不待春の光景に吟情を娯めたるなるべし、
頼山陽此際、大作一篇を草して平八郎の行を壮にし、当時の有司の無能にして、富豪商賈の鼻息を窺ふを痛罵して平八郎の功績を激称せり、然れども其文盛に時弊を【此/言】毀したるを以て、其前半ハ多く抹了され、其全文の今に存するもの極て少し、亦以て山陽と平八郎の交情の如何を見る可き也、
然れども、吾人ハ果して山陽が平八郎の心事を知得したるや否やを疑ふ、夫れ山陽ハ文儒にして平八郎ハ学儒なり、山陽ハ蘇東坡の放曠の如く、平八郎ハ陽明の厳粛の如し、山陽の日野亜相に答ふる書に閑雲野鶴、何天不飛の語あり、彼ハ元来江湖物に傲るの操ありて、廟廊民を治るの才に乏し、一部の歴史幸に風雲の会に投じて以て世用を為したること少からざりしと雖も、若し此一事なくんバ、彼ハ徒に煙波の釣徒、松菊の主人として已(やま)んのみ、平八郎に至りてハ則ち然らず、其一代の偉器を家国の上に用ひ以て斯君を匡し斯民を安んぜんとするの念ハ、行住起臥、常に彼が心頭を離れざる所にして、其仕を致して身を退き、学を講じ書を著はすが如きハ、実に已むを得ざるに出づるのみ、故に若し吾を用ふるものあらバ必らず政を天下に為さんとハ想ふに平八郎が畢生の心事なりしならん、然るに山陽の送序中所愛在処閑読書と云ひ、又不得已而起為国家奮不顧耳と云ふが如きハ豈平八郎が匪躬の節を知るものならんや、文人の英傑の心を知らざるや此の如し、宜なり平八郎が我独自知焉耳と歎じたることや、