Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.7.24
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その11
猪俣為治
『朝日新聞』1898.9.29 所収
朝日新聞 明治三十一年九月廿九日
大塩平八郎 (十三) 猪俣生
其四 遊歴及著述(続)
天保二年に於てハ、吾人ハ平八郎の歴史として特に記すべきものを見ず、蓋し彼ハ益々徒を集めて盛に講学を勉めたるなるべし、而して彼ハ独り洗心洞に於て道を説き教を拡むるを事としたるのみならず、又屡々(しばしば)有志の求に応じ市中近在に出でゝ講莚を開き、遂にハ尼崎及び大槻 *1 の藩士の招聘に応じて出講するに至れり、故に彼が其馬に跨り一僕を従へて尼崎街道を来往するや、威容厳然として儒将の風あり、道路の人相指さして大塩先生来れりと云はざることなし、
吾人竊(ひそ)かに考ふるに若し或人の説の如く、平八郎
が林家の為に金を調達せんと欲して無尽を企てたるが若きことありとせバ、其ハ此年の事なりしならん、然れども吾人ハ此説の平八郎を傷つけんが為に捏造されたるものに非らざるやを疑ふ、一書に曰く、
大塩素より大志あり、已に致仕すと雖も青雲の志ハ未だ消失せず、常に云ふ、吾小官なり共今一度出でゝ天下の大政の端に与かるを得バ、吾生涯の願足らんと、偶、林大学頭の家宰、大坂に来りて金を供ることあり、或人これを大塩に告げて、祭酒ハ大府の儒官にて、人をも推薦する由なれバ、此度の事を幸に彼に金を貸し、密かに素願の趣を声託すべしと云ふに、大塩喜んで之に従へり、是ハ彼家宰より祭酒に乞ひ勘定奉行に挙げらるゝを求めしなり、然るに家宰東帰の後、更に消息なし、之を促がせども尚其報を得ず、大塩堪かねて、自ら江戸に下り、親しく家宰に就て催促したれども、竟に其事成らずして空しく帰阪しぬ、然るに年を踰(こ)えて此乱ありしハ、大塩蓋し素志の達せざるを憤ほりての事ならん、林氏へ貸したる金ハ四百両なりしが、乱前に還すに及ばずとて劵書を戻したる由、
又一書に拠れバ
五六年以前(乱後より云ふ)平八郎出府致し、滞留往返の内、所々に経歴も致候哉に相聞、江戸にてハ林家へ立入候赴にて、既に林家ハ無尽被相願候由、守口宿、幸右衛門ハ五百両取、猪飼司馬助 *2 ハ二百両差出候由、右に凖じ身立宜敷候者大阪并在々にて出金のもの数々有之候、
若し果して平八郎林家の為に金を調達したることあらバ、是れ林祭酒ハ己の旧師なるを以て一時其急を救ひしに過ぎざらん、然れども此一事文書の以て徴すべきなきを以て、姑(しば)らく未了の案件となさゞるを得ず、
天保三年の初に於て平八郎の古本大学刮目十数巻を著はせり、是れ彼が致仕の後、最初の著作にして、名づけて梱外不出之書と云ひ、決して他人に示さゞりしものなりと云ふ、
此歳の四月、山陽の平八郎を訪ふや、其古本大学刮目を一見せんと請ひ、其綱領を読みて曰く、是一家言に非ずして昔儒格言の府なり、襄や不敏と雖も請ふ之に序せんと、平八郎答へて曰く他日を以て之を煩はさんと、而して此書天保八年の兵乱の際、殆んど散佚して焼燼に帰したり、其後大阪の有志某深く之を惜みて蒐集に従事し、漸やく十中の二三を輯録したりと云ふ、又此時既に洗心洞箚記の著述に従事せり、
管理人註
*1 高槻のことか。
*2 猪飼野村・木村司馬之助のことか。
参考
相蘇一弘 「天保六年、大塩平八郎の「江戸召命」について」(『大阪の歴史 第54号』大阪市史編纂所編 大阪市史料調査会 1999.12 )
井上哲次郎「大塩中斎」その5
「大塩平八郎関係年表」
猪俣為治「大塩平八郎」目次/その10/その12
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