Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.8.24

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その28

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.21 所収


朝日新聞 明治三十一年十月廿一日
大塩平八郎 (卅四) 猪俣生

  其七 平八郎の学術と徳川時代

平八郎の学術を論ぜんと欲せバ、先づ之が序引たらざる可からざるもの二條あり、則ち其一ハ徳川時代に於ける学術の変遷にして、其二ハ王陽明の学説の大要なり、蓋し前者を記述せざれバ、何故に彼が陽明学を信ずるに至りしかを明にすること能はず、又後者を遺却せバ如何にして彼が太虚説を唱ふるに至りしかを審にすること能はざるなり、然れども此二條たる共に重大なる題目にして之を記して遺憾なきを欲せバ各一部の一著作を要するのみならず、平八郎の太虚説の如きハ、其真味専ら自得黙契の上に存し、言語の以て容易に之を髣髴する能はざるものあるを以て、説きて其詳なるを欲せバ読者の倦怠を招かんことを畏る、故に吾人ハ唯草々に此章を記述して以て足りとせん、想ふに是亦吾人の読者諸君に忠なる所以なる可し、

夫れ元和の偃武以前の二百年を以て干戈(かんくわ)の戦争時代なりとせバ、其以後の二百年ハ之を学術の戦争時代なりとせざる可からず、故に元和以前に於てハ功名の道干戈に在りしを以て、苟も胸中一塊の気力ありて田畝の間に伏死するを好まざりしものハ、尽く走りて行伍の間に投ぜざるハなく、後者に於てハ利達の機学問に存したるを以て、苟も一副の才調ありて名を天下に成さんと欲したるものハ、皆学術に其身を委するに至れり、吾人ハ徳川時代の学術の復興に対する類例を他国に求めて恰当の時代を得るに迷ふ、若し之を支那に求めんか、宜しく之を学士論客が互に論を競ひ説を闘はしたる戦国時代に比すべきに似たり、其人民の智見漸く開けて人々皆智識を求めんとするの念に熾(さか) んなりしこと相似たり、其一芸一術に頼りて徒を集めて道を講じ、以て名声を擅(ほしいまゝ)にし、或ハ帝に説き王を干(をか)して、以て利達を貪ぼりしこと相似たり、然れども又自家のの一智見を開きて独立独行、以て学者の面目を保つ能はず、徒に他人の門墻に拠りて訓詁註疏の間に区々たるもの多きハ、終に是れ漢魏晋隋の陋習、宋末明初の旧巣を脱すること能はざりしものなるを如何せん、若し之を泰西に求めんか、宜しく之を暗黒の長途を経過して再び白日の下に出でたるレナイザンスの時代に較ぶ可きものゝ如し、其一般に書籍の広く人民■■(?)に伝播せしこと相似たり、其人民の思想界に於て別に一箇の天地を開拓するに至りしこと相似たり、然れ共其徒らに口給辯論を事として、実用躬行の上に力を用ひざりしこと、終に是れソクラテス、プレート以前の希臘詭弁学士の時代に類したるを如何、

物徂徠都三近に与ふる書に曰く、「昔在邃古、吾東方の国、泯々乎として知覚なし、王仁氏ありて後民始めて字を識り、黄備氏ありて後経芸始めて伝はり、菅原氏ありて後文史誦すべく、惺窩氏ありて後、人々言へバ則ち天と称し聖を語る、斯四君子ハ学宮に尸祝(ししゆく)すと雖も可なり」と、然り、徳川氏以前に於て儒官と名づくる者ありて朝廷に於て世職を奉じたりと雖も、其事とする所ハ詩賦を詠吟するに非ざれバ、書札に従事するに止まりて、未だ性理の学を講ずるに及ばざりしなり、其天人性理の学を闡明して思想界に一大開拓を為したるハ、実に藤原惺窩を以て嚆矢とす、是より先き僧侶の間、往々宋学を説くものありしも、動もすれバ輙ち仏を以て之を解して、未だ儒を以て之を解するに至らざりしに、惺窩出づるに及びて深く儒道を尊信し、大に聖学を講求したるを以て、儒道ハ遂に我国人倫の規矩、治国の要道と為るに至れり、


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