その29
『朝日新聞』1898.10.22 所収
朝日新聞 明治三十一年十月廿二日
大塩平八郎 (卅五) 猪俣生
時に変乱漸く已み、国家創業の際に属するを以て徳川家康大に文物を盛んにし、制度を創始し、朝儀を起し、律令を定め、以て守成の綱常を立てんとするに意あり、是を以て文禄二年に於てハ惺窩を江戸に聘して貞観政要を講ぜしめ、慶長八年に於いてハ士庶人に講書の禁を説き、越えて二年遂に林羅山を召して之を重用し、以て文物典章を査覈(さかく)するの任に当らしめたり、是より羅山は幕府の叔孫通と為り、即位、改元、入朝の礼より、以て宗廟祭祀の典、外国蛮夷の事に至るまで一に其議に与からざるハなし、而して羅山ハ子に鵞峯あり孫に鳳岡あり、共に絶倫卓偉の才学を有し、三代五朝に歴仕して、毫も其家声を落すことなかりき、殊に幕府ハ元禄三年に至りてハ聖廟を湯島に移して大に文教を起し、尋いで四年に至りて従来の儒者の僧侶と同じく其顱(ろ)を禿にして士林に列するを得ざるの制を廃して、政務に与ることを許すに至りしもの、皆鳳岡の企画する所なり、宜(うべ)なり林家十世、綿々として相継ぎ、世々祭酒の職を襲ふたることや、是故に幕府初代に於ける儒学ハ、所謂程朱の学にして、程朱の学ハ則ち林家の学なり、則ち林家の学ハ徳川幕府の御用学問なり、認可学問なり、故に当時天下学問の正統ハ林家に存し、林家ハ則ち天下の学問を統制するの権力を有したりしなり、 寛永正保の間に、土佐に谷時中と呼ぶものあり、独力自から振ひて、書を読み道を講ず、其門人に野中兼山あり、小倉三省あり、其学級たる要するに程朱の学を離れずと雖も、其狷介気を負ひ、一種の気格を有するに至りてハ大に林家の程朱学と異なるものあり、是則ち所謂南学なるものなり、然れども未だ林家の学と全然別種のものたるに至らざりき、 然るに林羅山卒するの前十八年、即ち寛永十六年に於て近江に中江藤樹あり、始めて明より渡来せる王陽明の書を読み、其の学を信じて朱学を排し、徒を集め道を講ず、時に藤樹三十三、世之を近江聖人と称す、是れ林家の家学に対して起りたる第一の反抗なり、
藤樹が王陽明の学を唱へてより後十五年、即ち明歴(暦)元年に及び、土佐南学の系統より出でたる山崎闇斎京都に於て帷を下して教授に従事す、時に彼三十八、彼初年程朱の学を奉ぜしと雖も、学風自ら林氏の学と異なり、後吉川惟足に従ひ神道に帰依し、朱学と神道を加味して一家言を為すに至りて、林学と大に異なるに至れり、是れ林氏の家学に対して起りたる第二の反抗なり、