その27
『朝日新聞』1898.10.20 所収
朝日新聞 明治三十一年十月二十日
大塩平八郎 (卅三) 猪俣生
蓋し文政天保年間ハ、徳川三百年の治世漸やく将に乱れんとするの時なるを以て、其衰頽ハ歴々として英雄の眼眸に映じ、所謂時代の精神なるもの、亦英雄に耳語して、頻りに彼等を皷吹煽動するの時たり、故に若し頼山陽に詩人的勤王の念浮び出でたりしとし、林子平に経綸的国家の念浮び出でたりとせんか、平八郎の胸中にハ則ち社会的革命の念浮び出でたりとせざる可からず、而して此勤王思想に対してハ茲に日本外史あり、此国家思想に対してハ茲に海国兵談あり、然らバ則ち平八郎の革命思想に対して茲に丁酉の一挙ありしを怪しまんや、
丁酉の一挙ハ一箇の謎語(めいご)なり、一箇のデニグマな り、或ものハ之を以て倒幕の先鞭なりと為し、或者ハ之を以て圧制に反抗する革命軍なりと為す、又或ものハ之を以て不義に対する正義、私慾に対する博愛の戦争なりと為し、或ものハ之を以て満足に対する失望、冨貴に対する貧困の奮闘なりと為す、而して甚しきに至りてハ近時、平八郎の此一挙より社会主義を学ばんとするものあるに至る、鳴呼丁酉の一挙、其真義軽率に断定し易からんや、想ふに丁酉の一挙にして、果して討幕勤王の念を含蓄したるものならしめんか、其意味の一半ハ維新の改革に於て発揮し尽されたり、若し果して不義に対する正義、満足に対する失望の闘争ならしめんか、其主張ハ今日と雖も未だ尽きざるものありて、平八郎ハ尚暗唖叱咤、社会を警省して已まざるものなり、而して平八郎をして東洋的社会主義の開山たらしむべきや否やの問題ハ、時勢の変遷か将来に於て之を解釈するを待たざる可からず、
当時平八郎を知るものゝ語る所を聞くに曰く、彼ハ広額広顴、眉濃く眼鋭く、一見人をして畏敬の念を起さしめ、而して壁間常に張子房の画像を懸けて之を愛玩し、床上に今川義元の古兜を飾り置けりと、是に因りて之を観れバ、彼が平日儼然として此に端坐するや、是れ翩々たる儒将と云はんよりも、寧ろ矯々たる虎臣の相ありしならん、彼生平張子房の人と為りを慕ひ、甞て門生に語りて曰く、漢家四百年の間、張良を以て第一等の人物と為すべきハ論なし、然れども余の張良に取る所ハ其沛公を助けて帝業を成したる功績に在らずして、寧ろ蒼海公を傭ひ来りて博浪沙上秦皇を撃砕せんとしたる胆力に在り、此胆力在りて而かも遁逃行く所を知らず、始皇をして天下に求めて終に得る所なからしめたるハ是れ豈彼が智力の然らしめたる所に非らずや、当時皆以為らく、張良ハ遠く山谷間に逃れたりと、焉んぞ知らん彼ハ近く博浪沙中の民家に在りしを、此智亦尋常人の企て及ぶ所ならんやと、嗚呼平八郎が乱後遠く逃れずして、近く大阪に在りしもの亦其智を襲ひたるものに非らざるか、
若し夫れ平八郎が企てたる博浪沙中の一撃の如何ハ、吾人ハ読者と共に別章に於て之を観ざる可からず