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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その30

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.23 所収


朝日新聞 明治三十一年十月廿三日
大塩平八郎 (卅六) 猪俣生

  其七 平八郎の学術と徳川時代(続)

山崎闇斎帷を下せし後八年、即ち寛文三年に及び伊藤仁斎亦京都に於て書を著はし道を講じ、専ら漢魏の伝註学を唱ふ、世之を復古学と称す、彼時に年三十六、是林氏の家学に対して起りたる第三の反抗なり、

仁斎古学を唱へて後二十有余年、即ち元禄三四年の頃に及び、荻生徂徠江戸に於て講説に従事す、彼時に年二十五、徂徠初め専ら宋学を奉ぜしと雖も、後に至りて李王の説を信じ、盛に修辞の学を主張し、遂に別に一家学を構ふるに至れり、世之 を徂徠学と称す、是林氏の家学に対して起りたる第四の反抗なり、

之を要するに徳川二百年間の学術史ハ、右五派の駢【金鹿】(へいろく)馳聘して其優劣を争へし戦闘史にして、別に明の遺臣朱舜水、陳元贇の如きものありと雖も、一方の遊将たるに止まり、未だ以て大勢を左右するに至らざりしなり、

斯の如くにして学術の割拠ハ為されたり、斯の如くにして議論の闘争ハ始まれり、而して各派各高才逸足の子弟多く、彼等また皆門戸を立てゝ其信ずる所を主張せり、即ち惺窩の門にハ藤門の四天王あり、又五高弟あり、羅山に至りてハ弟に東舟あり、子に鵞峯あり春斎あり、孫に鳳岡あり、玄孫に榴岡あり、門弟に向井霊臺あり、人見鶴山あり、永田善斎あり、那波活所の門にハ那波魯堂あり、江村剛斎あり、松永昌三の門にハ木下順庵あり、而して木下順庵ハ最も高弟に富み、木門の五先生、十哲等、皆其薫陶に出でし所、而して山崎闇斎に至りてハ贄を執るもの六千人の上に出で、其山崎門の三傑たる網斎、尚斎、直方を外にして操軒あり、拙斎あり、東村あり、是れ皆一時知名の儒、加ふるに直方稲葉迂斎三輪執斎を出し、尚斎菅野兼山、久米訂斎を出し、而して網斎の門にハ世の称して浅見門の三傑と称するものを出せり、又転じて仁斎に至らんか、先づ伊藤の首尾蔵或ハ堀河の五蔵と称すものを外にして並河、中江、荒川、伊藤の四傑あり、皆各一方に屹峙して講学を事とせり、若夫れ徂徠に至りてハ門弟最も多く、或ハ徂徠門の七才子、或ハ【艸/言爰】園の二妙才、四傑等、人材林の如く、雲の如し、而して山崎派ハ林派を罵りて凡俗なりとなせバ、林派ハ山崎派を嘲けりて孤陋なりと為し、徂徠派ハ仁斎派を詆りて才調に乏しと為せバ、仁斎派ハ徂徠派を笑ひて淫靡に流るゝと為す、性理を主張するもの、躬行を主とするもの、力を典刑に専にするもの、心を詩賦に注ぐもの、高談するもの、著作するもの、各門戸を張り城壁を設け、己の門に入るものを賞し、出づるものを【此/言】(そし)る、是に於て林門にして古学に入る高瀬孝山の如きあり、徂徠派にして林門に入る久野鳳梧の如きあり、林東溟大阪に至りて物氏の学を唱ふれバ、伊藤竹里ハ江戸に入りて古学を主張し或ハ攻め或ハ守り、弁難攻撃、毀【此/言】(きし)折至らざるなく、加ふるに神道仏教の此施渦中に投ずるありて羅山ハ神道を誹れバ、闇斎ハ之を保護し、潮音法師出でゝ仏教の大風呂敷を拡げ、加茂本居出でゝ盛に神道を主張し、紛々擾々として天下の子弟の適従する所を知らざるもの殆んど百五十年、而して元文年間に至りてハ、山崎仁斎の二派ハ殆んど其根底より覆されんとするに至り、林派ハ僅に幕府の保護の下に其余喘を保ち、徂徠派殆んど一時を偽定せしの観を呈したり、而して徂徠派の斯の如く勢力を得たるハ、最も後に世に出でたるもの其一原因なりしと雖も、又其学風自から然らざるを得ざるものあり


猪俣為治「大塩平八郎」目次その29その31

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