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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その31

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.24 収録


朝日新聞 明治三十一年十月廿四日
大塩平八郎 (卅七) 猪俣生

  其七 平八郎の学術と徳川時代(続)

然れ共、盛なり易きものハ復た衰へ易きハ自然の数なるを以て、遂に徂徠学に対する一種の反動出で来れり、而かも諸家の説尽く一たび撃打■折を受けたる後にして、何れの説と雖共に多少の瑕瑜あらざるハなく、人々をして之を信用せしめんとするも、到底勢の為し難きを見るに至れり、是に於てか徂徠門の片山兼山起りて折衷学を唱ふ、是諸家の論を折衷し、其善を採り、其悪を去り、以て正当の説を求めんとするに在りて、恰もグーザンがプレートアリストートル等の説を採選せんとしたる採■(さいせき)説の如し、之に継ぎて林門の井上金峨、亀田鵬斎等之に和し、理義ハ宋説を取り、伝註ハ漢魏に拠遵するを主とせり、而して其詩文の如きハ勉めて華麗淫辞を排して清新の調を唱へしかバ、天下之に和するもの多く、江戸の文学復た為に一変せり、是れ安永天明間の事なり、然れども既に折衷学起りて諸家の説を選択するや、人人漸やく懐疑の念を起し、其極復た熱心に一定の学を奉ずるものなく、唯某ハ斯く云へり、誰々ハ斯く論じたりと、徒に其説を挙示して自己の定見を主持せざるに至れり、考証学の一派即ちち是れなり、時に松平定信天明の末を以て執政と為り、百事を釐革(りかく)すると共に大に学風を振起せんとするの意あり、故に寛政二年五月五日に至りて、第八世の祭酒林大学頭信敬及び其他の儒官に対して異学禁制の令を下せり、是支那宋の慶元の朝に於て偽学の党を禁じ、若くハ欧洲中古に於てローマ教徒が新教徒を抑制したると異なることなし、真に思想の自由に対するクーダアテーとも謂つ可きなり、若夫れ此間に於ける学者の生涯を叙せんか、学術の異同よりも更に其紊乱したるを見る、抑々国家の禍乱漸く跡を収むるや、人民の思想ハ目前の喜憂より転じて無形の義理に向ふべきハ理の当に然るべき所にして、幸に此際士庶人一般に書を読むを許さるゝあり、是実に儒学ハ智識の宝庫として人民の前に開かれたるものなり、加ふるに幕府より大小の諸侯に至るまで、家国創造の運に際したるを以て、制度律令を規定するに多くハ儒者の賛画に待つあり、故に徳川治世の初頭に於て、道を講じ書を著はしたるものハ、皆特異出群の徒たりしハ素より論なしと雖も、亦功名利達の機に投じたるものと云ふ可し、故に野に在るものと雖も講説著書以て生を営み名を為すに足り、其一旦仕ふるや実に覇王侯伯の賓師と為るを得たり、是を以て羅山闇斎徂徠等ハ、其弟子と共に皆侯伯に仕へて以て禄を食まざるハなし、独り仁斎及び東涯ハ 終身仕へざりしと雖も、其子弟に至りてハ出仕するもの少なからず、然るに功名利達の存する所ハ則ち人々の集る所、其学を修むるの徒漸やく増加するに至りて、進んで禄を求めんか、諸侯亦悉く用ふる能はず、退きて徒に教へんか黌堂も亦多きに失せり、是に於てか凡庸の学者ハ名ハ儒者と称すと雖、三家村裏に屈居して児童の句読師と為るものあり奥に媚び竃に諂ひ、痔を舐り癰を啜りて、以て斗升の禄を釣せんとするものあり、或ハ淫靡の小説を著はし、或ハ瑣末の野乗を著はし、以て生計の資とするものあり、而して少しく才気あるものハ放縦自適、酒色に沈溺して名教の罪人と為るを辞せざるに至る、此際に於ける書画会春初発会著書会等の景況を見バ、如何に儒者なるものが生活に苦しみしかを知るに足らん、寺門静軒ハ自家も其題目中の一人なりしに関せず、当時の儒者の卑猥の状を罵りて曰く、君不見【土番】間酒色祭祀余、昏夜乞哀諂又諛、未知妻妾相向泣、施々外来驕且娯、昏夜乞哀猶可忍、白日乞哀若為靦、耻之人於尤【弋/心】矣、利奔名走為君愍と、嗚呼堂々たる儒者此に至りて堕落の極に達せりと云ふ可し、

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