その32
『朝日新聞』1898.10.25 所収
朝日新聞 明治三十一年十月廿五日
大塩平八郎 (卅八) 猪俣生
而して林氏の家学に対して第一に反抗したる王陽明学の景况ハ如何、初め中江藤樹王氏の学を唱へしと雖も、久しからずして歿し、其講学の間僅に八年に過ぎざりしを以て、普(あまね)く其説の伝播する暇なかりしのみならず、彼ハ郷里の子弟を集めて講説するを以て満足し、都門に出でゝ大に門戸を張るに意なかりしを以て、其徒極めて少なかりし、而して門人に中川権右衛門、淵源左衛門、中江常省の諸氏ありしと雖も、未だ以て名を挙ぐるに至らず、熊沢蕃山に至りてハ絶倫の才識ありしと雖も往々選んで精しからざるの弊あり、貝原益軒初年王氏の学を好みしと雖も、後遂に朱学に帰し、石庵自から王氏を奉ずと称すと雖も人之を鵺(ぬえ)学問と嘲る、然らバ藤樹以来真に王氏の学を信ぜしものハ独り三輪執斎あるのみ、執斎ハ藤樹の歿せし後十八年即ち寛文六年に於て生れ、始め佐藤直方の門に入りて学を修め、後廐橋侯に仕へしも、王氏の致良知学に悟る所ありて、遂に仕を致せり、是れ初め其進むや朱学を以てしたるが為なり、而して執斎の寛保四年七十六才にして死するや、復一人の王氏の学を信ずるものなし、
三輪執斎死して後四十九年にして平八郎ハ生れたり、彼ハ其当時の学者の状態を睹聞せるものなり、想ふに彼も其初年や亦其習風に化せられ、訓詁の学に力を尽したるならん、詞章の学に情を馳せたるならん、理義分析の学に心を労し、功名利禄の学に思を潜めたるならん、既にして訓詁の学の浅薄にして聖学の奥旨を捜るに足らず、詞章の学の蕪雑にして道徳の本体を明にするに足らず、理義分析の学の空疎にして益なく、功名利禄の学の卑猥にして賎しむ可きを慨歎したるならん、平八郎が佐藤一斎に与ふる書中、彼が学説三変して終に王氏の学を信ずるに至りしことを説けり、平八郎 が当時の学風に慨して以て王氏の学を唱へしもの決して偶然にあらざるなり、