Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.5

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」

その33

猪俣為治

『朝日新聞』1898.10.26 所収


朝日新聞 明治三十一年十月廿六日
大塩平八郎 (卅九) 猪俣生

  其七 平八郎の学術と徳川時代(続)

平八郎が陽明先生を祭る文の首節に曰く、 而して其末段に至りて曰く、
■の字

然らバ則平八郎の王氏の学を奉ずるに至りしハ、師之を教へたるに非らざるなり、人之を誘ふたるに非らざるなり、実に是天其衷を誘ひて以て彼をして王氏の学を信ぜしめたるなり、

王陽明ハ有明の末葉に生れ、聖学明かならずして訓詁、記誦、及び詞章の学の徒らに群起角立するを見て、慨然之を一掃するの志あり、遂に良心説を提起し聖学を千歳の後に闡明せり、而して徳川時代の支那の学術を輸入するや、支那の学術相総合して一時に注入し来りしを以て、漢魏、伝註訓詁、晋隋六朝の詩賦、若くハ唐代の文章、若くハ宋明の理学、即ち彼に於てハ数百千年の間に散見したるもの日本に於てハ僅に二百五十年の間に再現し来るに至れり、故に徳川時代の学術界ハ、支那数百千年間の学術界の縮小せるものにして、陽明以前の支那の学術界ハ、猶ほ平八郎以前のの徳 川の学術界の如く、陽明の慨歎せし所ハ則平八郎の慨歎せし所なり、故に此時に於ける平八郎ハ、実に陽明たらざらんを得ざりし位地に在りしなり、

平八郎既に陽明学を信ぜり、是れ既に徳川の認可学問御用学問に反抗して異学禁制の令を破ぶりたるものなり、故に彼の陽明学を唱ふるや、当時の儒者之を目して異端と為し、邪説と為し、攻撃讒謗至らざるなかりも彼ハ之れに対して平然たりき、然らバ則平八郎ハ徳川の政治に対して謀叛するの前、先づ徳川の学術に対して反旗を掲げたるものなりと云はざる可からず、

平八郎王氏の学を信じ、之を研究考索するに及びて、太虚の理に非ずんバ以て致良知の義を明にし、其奥底極致に達する能はざるを知り、遂に太虚説を唱道するに至れり、夫れ太虚の字面の張子正蒙に出でたるハ平八郎既に之を云へり、張子曰く、太虚無形、気之本体、又曰く太虚不能無気、気不能不聚而為万物、万物不能不散而為太虚と然れども平八郎ハ張子の説に因りて其道の帰趣を知れるのみ、之に達する工夫ハ大に同じからずして、彼ハ良知説に非らずんバ之に達する能はずとせり、先づ主観的に彼の所謂太虚の説を窺ふに曰く、人不帰乎太虚、而喜怒哀楽任情起滅、則立徳喪身之基也、又曰く心体虚霊而已矣、悪固無、雖善不可有、此語に拠りて其説を推すに、禁慾 絶念の境に達したるものを称して太虚に帰したりと為すものゝ如し、果して然らバ佛氏が第八の阿那頼識以下を打破して大悟の境に達すべしと説くに類するものあり、然れども彼又儒仏の区別を論じて曰く、仏氏不入中国已前、孔子既空々、顔子屡空、仏氏入中国後、其亦言空、於是我空与彼空混焉、而於其極、則我空与彼空本一物、只有死活之異耳と、然らバ太虚説の仏氏の所説と異なる所あるや知る可し、


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