其悲憤慷慨の状、以て想見すべきなり、
又幕末の遺老木村芥舟翁の著はせる笑鴎楼筆談中に左の一節あり云く、
大塩後素、一と年彦根に至りし時、岡本黄石翁 *1これを其家に延き、兵書の講義を聴かんことを求めしに、後素忽ち色を正うし、足下何の用ありて兵書の講義を望まるゝや、僕が甚だ解せざる所なり、請ふ其説を聞かんと、
席を促し言ひければ、翁も意外の事に思ひ、答へけるは、御承知の如く、予が祖先は、兵学を以て藩に仕へ、余も不肖ながら、今大夫の末班に列し、祖先の志を継がんと思ひ、幸に先生の高説を聴き、聊か国家に尽す所あらんと欲するに外ならずといへば、
後素稍々顔色を和らげ、兵は活物なり、一二講論の尽す所に非ず、足下もし意あらば、余が家に孫子十解といへる珍書を蔵せり、これを貸与すべし、此書を熱読せば、思ひ半に過ぎるものあらんと辞し去れり、後素が最前辞気の獅オきには、殆んど其答にも窮したりとて、黄石翁の語られたり、
又、同翁の話に、予が少壮の時、面会したる諸先輩のうち、体貌俊偉にして、殊に立派なりしは、渡辺華山と、大塩後素の二人なり、誰が見ても大国の藩老なるべしとの感あらしむ、吾輩共に立ちて、慚かしく思ふ程なり、
頼山陽は、容貌卑野にして、思ひしとは大に違へり、又其講釈をなせるを聴くに、極めて拙にして、明晰ならず、文章の手際とは、雲泥の差ありとなり、
又中斎の容貌に関しては彼れが門人たりし疋田竹翁の談話あり、云く、
大塩の容貌ですか、中々美男で御座りました、そふです、身の丈けは五尺五六寸、少し瘠せぎすですが、凛とした風采は、そりや立派なものです、頭の髷は短かう結ふて御座りましたが、色は白い方で、眼はあまり太くなく少し釣つて居りましたから少し怒を含まれた時などはどんな者でもびりつきましたね、