中斎妻なし、唯々一妾あるのみ、其名をユウといふ、尼なり、ユウも亦頗る学識ありて、決して尋常女子の儔にあらず、大学の如きは之れを暗記し、時ありて中斎に代り、門生の為めに、中庸若しくは史記等の書を講ぜり、
ユウが尼となりしことに就いては、伝説あり、
中斎 本と一厘半銭と雖も、唯々人より貰はざる主義て、兼ねて家人にも之れを戒め置けり、然るにユウ或る時 人より櫛を贈られ、之れを返すに由なく、竊に受けて之れを匿せしに、偶然にも中斎に発覚せらる、中斎己れが主義を破れるを怒り、即座に其髻を截断して尼となせりといふ、ユウに一男あり、弓太郎*1といふ、乱後永牢に処せらる、故に中斎の子孫は乱後に及んで、全く断滅せり、
中斎の門人は多くは与力なり、
然れども又他処より遊学に来たれるものも、亦之れなしとせず、門人の数は一時に四五十人を下らず、若し前後を合すれば総数千人の上に出づべし、
当時最も卓絶せしものは、宇津木矩之丞にして洗心洞の塾頭たり、
松浦誠之、湯川幹、松本乾知等多少将来望ありしものならん、然れども皆乱の為めに、難に死し、其器を大成すること能はざりき、是れを遺憾となすのみ、
中斎は交道広しと謂ふべからず、
猪飼敬所の如き、唯々一回訪問せしのみ、足代弘訓と相識りしと雖も、其学相同じからず、未だ心交の友と謂ふべからざるが如し、
篠崎小竹と一面識ありと雖も、「金ずき儒者の知る所にあらず」と一言を以て侮辱せり、
唯々近藤重蔵とは、意気投合するものあり、
重蔵は本と博識の士なれども、決して尋常儒者の徒にあらず、彼れ曾て千島探険をなして、「天長地久大日本帝国」の木標を建てたるもの、亦一の豪傑なりと謂ふべし、
彼れが弓奉行となりて大阪にある時、中斎往いて之れを訪へり、
長田偶得氏著はす所の「近藤重蔵」中に左の一節あり云く、
初め平八郎、重蔵の名声を聞き、一たび相見て胸中の奇を問はんと欲し、一夜其門を叩きて面会を請ふ、頓て一人の老僕出で来りて、此方へとの案内に連れ、書院に打通りて、設けの座に着きぬ、
されど主人は何地へ行きけん、遅てども遅てども 其咳声だに聞えず、燭涙 堆をなして、更漸く闌なり、
平八郎兼てより重蔵の傲慢 人を蔑にすることを聞き知りしかば、別段心にも懸けざりしかど、余りの待遠しさに腹立しく、偖てこそ聞きしに優る無礼の曲者なれと独語しつゝ、不図四辺を見廻せば床間に百目砲あり、主人の愛蔵と覚ぼしく、製作頗る美、銃身爛として灯光と相射り、硝薬も亦備はれり、
平八郎大に喜び、いで傲慢者の荒膽挫き呉れんと鉄砲取つて硝薬を装ひ、火蓋切つて放てば、轟然として百雷の墜下せる如く屋壁震動し、硝烟室内に充ち満ちたり、重蔵静かに襖押開かせ、左手に烟草盆を提げ、右手烟管を把り、悠として座に着きて曰く、一発の御手並、感心仕ると、相見の礼畢りて、直ちに酒杯を喚ぶ、
既にして重蔵、故らに一鍋を平八郎の座側に置きて賞味を請ふ、
何心なく蓋を撤すれば、個はそも什麼に一個の鼈 蠢々として鍋底に蠕動し居れり、平八郎少しも驚きたる色なく、呵々と打笑ひ、好下物、遠慮なく頂戴仕らんと小柄を抜きて其首を掻き切り、血を啜りつゝ痛飲しければ、流石の重蔵も其気膽に服しけん、
これより互に相往来して、交情極めて親密なりきとぞ、
中斎と重蔵、何れも非常の人物なるを以て其相遇ふや、東峯西嶽、相対立する慨ありしや疑なし、
然れども中斎が最も尊重せし知己は頼山陽なり、
山陽は 本と文人にして経学あるものにあらず、中斎が之れと相交はること甚だ奇なるが如しと雖も、彼れは竊に山陽の膽あり識ある所を喜べり、彼れ自ら辯じて曰く、
後、山陽が血を吐いて病革まるや、中斎京師に之きて之れを訪ふ、其時彼れ已に永眠せり、
中斎自ら山陽を追慕して曰く、
知我者、莫山陽若也。知我者、即知我心学者也。雖知我心学則未尽箚記之両巻、而猶如尽之也、
中斎は此の如く山陽を以て我心学を知るものとせり、然れども山陽は毫も心学を知れるものにあらず、彼れが「読王文成公全集」の詩に曰く、
是れ陽明の文章を称揚するものなり、
陽明の学問の如きは、彼れの知る所にあらざるなり、山陽又曾て中斎に謂つて曰く、
兄之学問、洗心以内求、如襄者、外求以内儲、而作詩、而属文、如相反然、
彼れと此れと啻に相反するが如く然りといふべきのみならず、真に相反するものありといふべきなり、然れども山陽は中斎の陽明に類似せるものあるを認容し、彼れを小陽明と称せり、
然るに中斎は 又 山陽を以て陽明の文章と功業とに心服せるものとせり、其肝胆相照すべき共通の点を有せしこと、復た疑を容れざるなり、