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2001.10.20修正
2000.7.13

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 中 斎」 その13

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (13)

中斎妻なし、唯々一妾あるのみ、其名をユウといふ、尼なり、ユウも亦頗る学識ありて、決して尋常女子の儔にあらず、大学の如きは之れを暗記し、時ありて中斎に代り、門生の為めに、中庸若しくは史記等の書を講ぜり

ユウが尼となりしことに就いては、伝説あり、

中斎 本と一厘半銭と雖も、唯々人より貰はざる主義て、兼ねて家人にも之れを戒め置けり、然るにユウ或る時 人より櫛を贈られ、之れを返すに由なく、竊に受けて之れを匿せしに、偶然にも中斎に発覚せらる、中斎己れが主義を破れるを怒り、即座に其髻を截断して尼となせりといふ、ユウに一男あり、弓太郎*1といふ、乱後永牢に処せらる、故に中斎の子孫は乱後に及んで、全く断滅せり

中斎の門人は多くは与力なり、

然れども又他処より遊学に来たれるものも、亦之れなしとせず、門人の数は一時に四五十人を下らず、若し前後を合すれば総数千人の上に出づべし、

当時最も卓絶せしものは、宇津木矩之丞にして洗心洞の塾頭たり、

松浦誠之、湯川幹、松本乾知等多少将来望ありしものならん、然れども皆乱の為めに、難に死し、其器を大成すること能はざりき、是れを遺憾となすのみ、

中斎は交道広しと謂ふべからず、

猪飼敬所の如き、唯々一回訪問せしのみ、足代弘訓と相識りしと雖も、其学相同じからず、未だ心交の友と謂ふべからざるが如し、

篠崎小竹と一面識ありと雖も、「金ずき儒者の知る所にあらず」と一言を以て侮辱せり、

唯々近藤重蔵とは、意気投合するものあり、

重蔵は本と博識の士なれども、決して尋常儒者の徒にあらず、彼れ曾て千島探険をなして、「天長地久大日本帝国」の木標を建てたるもの、亦一の豪傑なりと謂ふべし、

彼れが弓奉行となりて大阪にある時、中斎往いて之れを訪へり、

長田偶得氏著はす所の「近藤重蔵」中に左の一節あり云く、

中斎と重蔵、何れも非常の人物なるを以て其相遇ふや、東峯西嶽、相対立する慨ありしや疑なし、

然れども中斎が最も尊重せし知己は頼山陽なり、

山陽は 本と文人にして経学あるものにあらず、中斎が之れと相交はること甚だ奇なるが如しと雖も、彼れは竊に山陽の膽あり識ある所を喜べり、彼れ自ら辯じて曰く、

後、山陽が血を吐いて病革まるや、中斎京師に之きて之れを訪ふ、其時彼れ已に永眠せり、

中斎自ら山陽を追慕して曰く、

中斎は此の如く山陽を以て我心学を知るものとせり、然れども山陽は毫も心学を知れるものにあらず、彼れが「読王文成公全集」の詩に曰く、

是れ陽明の文章を称揚するものなり、

陽明の学問の如きは、彼れの知る所にあらざるなり、山陽又曾て中斎に謂つて曰く、

彼れと此れと啻に相反するが如く然りといふべきのみならず、真に相反するものありといふべきなり、然れども山陽は中斎の陽明に類似せるものあるを認容し、彼れを小陽明と称せり、

然るに中斎は 又 山陽を以て陽明の文章と功業とに心服せるものとせり、其肝胆相照すべき共通の点を有せしこと、復た疑を容れざるなり、


管理人註
*1 弓太郎は格之助の子。母はみね。


参考
井上哲次郎「宇津木静区
伊藤痴遊「大塩平八郎と重蔵



井上哲次郎「大塩中斎」その12その14
「大塩中斎及び中斎学派」目次
『日本陽明学派之哲学』目次

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