洗心洞学名学則一篇あり、是れ中斎が主義を宣告したるものなるが故に左に之れを挙げん、云く、
弟子が余に問ふて曰く、先生の学、之を陽明学と云ふか、曰く否、
之れを程子学朱子学問といふか、否、
之れを毛鄭賈孔訓詁註疏の学問といふか、曰く否、
仁斎父子の古学か、抑々徂徠詩書礼楽を主とするの学か、曰く否、
然らば則ち先生の適従する所、将た何の学なるか、
曰く、我学問只仁を求むるにあるのみ、故に学<名なし、強ひて之れを名づけて孔孟学とふ、
曰く、其説いかん、
曰く、我学、大学中庸論語を治むるなり、大学中庸論語は便ち是れ孔氏の書なり、孟子を治むるなり、
孟子は便ち孟氏の書なり、而して六経は皆孔子が刪定の書なり、
故に強ひて之を名づけて孔孟学といふなり、
毛鄭賈孔の学は則ち経書の名義を註釈するなり、
程朱の学、大抵経書の精微、性命の底薀を説破するものなり、
陽明先生の学其就いて易簡の要を提ぐるなり、
仁斎徂徠は則ち特に其睡余のみ、
嗚呼孔孟の学、一の仁を求むるにあり、而して仁は則ち遽に手を下だし難し、
故に或は其訓詁註疏を読み、而して其影響を求め、或は其居敬窮理の工夫により、以て其精微を探り、その底薀を窺め、或は良知を致して以て其易簡の要を握り、而して畢竟各々皆孔孟の学に帰するのみ、
然り而して孔孟数千百歳以前、既に逆め数千百年歳の後、諸儒が各々意見を争ひ、宗を立て派を分ち以て同室の闘をなすを知る、
故に孔子孝経を以て曾子に授け、之れを至徳要道といふ、
孟子も亦曰く、尭舜の道は、孝弟のみ、是を以て之を考ふれば、則ち四書六経、説く所多端なりと雖も、仁の功用、遠大なりと雖も、其徳の至、其道の要、只孝にあるのみ、我学、孝の一字を以て四書六経の理義を貫く、力固より及ばず、識固よりまた足らず、然れども之れを心に求めて真に心中の理を窮め、将に死を以て斯文に従事せんと、故に直に孔孟学といふ、
是れ乃ち僭に似て、僭ならず、吾徒小子宜しく奉遵すべし、
而して若し我学を問ふものあらば、則ち之れを以て可なり、
嗚呼其生を忝うして、然儒を以て自ら冒すものは、則ち孔孟の罪人にあらずして何ぞ、
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