その19
『朝日新聞』1898.10.9 所収
朝日新聞 明治三十一年十月九日
大塩平八郎 (廿三) 猪俣生
弟子余に問ふて曰く、先生之を陽明学と謂ふか、曰く否、之を朱子学と謂ふか、曰く否、曰く之を毛鄭賈孔の訓詁註疏学と謂ふか、曰く否、仁斎父子の古学か、抑(そもそも)徂徠の詩書礼学を主とするの学か、曰く否、然則(しからばすなわち)先生の適従する所何の学か、曰く我学ハ只仁を求むるに在るのみ、故に学に名なし、強て之を名づけて孔孟学と曰ふ、曰く其説如何、曰く、我学ハ大学、中庸、論語を治むるなり、大学、中庸、論語ハ便(すなはち)是孔子の書 なり、孟子を治むるなり、孟子ハ便是孟子の書なり、而して六経皆亦孔子刪定(さんてい)の書なり、故に強て之を名けて孔孟学と曰ふなり、毛鄭賈孔の学ハ則ち只経書の名義を註釈するものなり、程朱の学ハ大抵経書の精微、性命の底蘊を説破するものなり、陽明先生の学ハ其中に就て易簡の要を提(ひつさ)ぐるなり、仁斎徂徠ハ則ち特に其唾余のみ、嗚呼孔孟の学、一仁を求むるに在りて、仁ハ則ち遽に手を下し難し、故に或ハ其訓詁註疏を読みて其影響を求め、其居敬窮理の工夫に因て、以て其精微を探り其底蘊を窺ひ、或ハ良知を致して以て其易簡の要を握る、而して畢竟するに各々皆孔孟の学に帰するのみ、然而(しかりしかして)して孔孟ハ数千百歳以前に、既に逆め数千百歳の後諸儒各々意見を争ひ、宗を立て、派を分ち、以て同室の闘を為すを知れり、故に孔子孝経を以て曾子に授けて、之を至徳要道と謂ふ、孟子亦曰く、尭舜の道ハ孝弟のみと、是を以て之を考ふれバ、則ち四書六経の所説多端にして、仁之功用遠大なりと雖も、其徳の至、其道の要ハ孝に在るのみ、故に我学ハ孝の一字を以て四書六経の理義を貫ぬき、将に死を以て斯文に従事せんとす、故に直に曰く孔孟学と、是便僣に似て若し我学を問ふものあらバ、則ち之を以て答て可なり、
孝経 増補孝経彙註並鄭註本
古本大学
中庸 朱註
論語 朱註
孟子 註朱
右一経四書
易 程伝
書 蔡氏集伝
詩 呂氏読詩記并朱子集伝
礼記 陳氏集伝并三礼義疏
春秋 并三伝
周官 三礼義疏
儀礼 三礼義疏
右七経三伝
伝習録
朱子小学
四名公語録
近思録
陽明子彙類
王門諸子(書)類
程朱書類 有口訳
歴代理学名賢書類 有口訳
右理学
廿一史
通鑑綱目
読史管見
名臣言行録 各有口訳
右史類
八大家文集之類
杜詩及宋十五家詩選之類
右詩文
毎暁卯の上刻に枕席を収め、皆盥嗽梳櫛して新理の書を読み、読み終り、退いて其書を読むこと十過、疑妄あれバ放過するを許さず、必ず就て正せ、然る後旧理の書を読むこと十簡、疑妄ハ亦復然り、書を習て後 字を写し、字を写して後 詩を誦し背誦し、而して後 韻字平仄、就て正せ、酉の中刻寝に就く、
于時文政八乙酉夏四月