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「大 塩 中 斎」 その3

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (3)

文政の末に当たり、京都の八坂に益田みつぎといえる妖巫あり、

肥前の浪人水野軍記より妖教を伝へ、此れによりて衆庶を誘惑し、其徒漸く京摂の間に蔓延せり、当時の所謂切支丹是れなり、

山城守中斎に之れを勦滅せんことを命ず、中斎乃ち自ら組同心二人を率いて京師に赴き、妖巫を捕縛し来りて之れを大阪に磔殺し、其一族五十六人に永牢を命ぜり、是に於てか妖教全く其跡を収むるに至れり、

其頃大阪西町の組与力に弓削新右衛門といえるものあり、己に六十才を踰えたる老人なるに拘はらず、多くの奸人邪徒を以て爪牙となし、市街近郷の良民を苦しむること特に甚しとなす、

是に於てか怨嗟の声、都鄙に嗷々たるに至りしも、糺弾の職にあるものは即ち犯罪者其人なるが故に、人之れを奈何ともすること能はず、

中斎山城守の命を受け、卒然衆を率ゐて彼れが宅を襲ひ、彼れに迫りて割腹せしめ、尋いて其党与数十人を捕へて之れを獄に投ぜり、

又新右衛門の家宅を捜索して得たる贓金三千両は悉々く之れを市井の窮民に賑恤せり、是に於てか吏人は肅として警戒を加ふるに至れり、

其頃僧侶の風俗、大に乱れ、其醜状の甚しき、殆んど言ふべからざるものあり、是を以て山城守僧侶に対し、汚行禁制の令を下す、令下る再三にして猶ほ其舊行を改めざるものあり、

中斎乃ち山城守の命を奉じて之れを逮捕することに決せり、此際獄に下るもの、五十余人の上に出づ、各々其罪の輕重に従ひて流竄に処せられたり、是に於てか僧侶の風俗頓に面目を改むるを得たり、

其他中斎の治蹟に関しては、人の注意を惹くに足るもの少しとせざれども、今一々列挙するに遑あらず、

要するに中斎は意を決すること固くして、事を処するに敏なり、如何なる困難ありて前に横はるも一刀両断して之れを決するの勇あり、

之れを前代の学者に比すれば、野中兼山若くば熊沢蕃山と相近きが如し、兼山蕃山皆己れが意志を決行するに急にして、共に其終を全うせず、

中斎いかんぞ其終を全うするを得ん、


中斎が治績大に挙がるに従ひ、其名声遠近に振動するに至れり、

斉藤拙堂が書簡に云く、

此れに由りて之れを観れば、当時の状況略々想見するに足るなり、然れども名声の起る所、必ず嫉妬の相従ふあり、中斎之れを知らざるにあらず、

彼れ曾て衆人の怨府となりて、或は不慮の禍を蒙らんことを恐れ、辞表を出だして一時蟄居せしことありしも、山城守強ひて彼れを起して再び事に従はしめたり、


「浮世の有様 文政十二年切支丹始末


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