Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.12.12

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「浮世の有様 巻之一」

◇禁転載◇

文政十二年切支丹始末 その1

     
 




 水野軍記

閑院宮御内にて、此度切支丹の根本也。

生国は肥前島原 又天草ともいへり の者にして、京師へ出来り、宮へ仕へしといふ。

其性良からぬ者にして、役に立たざる古証文等買取り、又は種々の工み事為し、享保二三年の頃の事なりしが、九條殿御内佐々木丹後守と共に、備中庭瀬 此節高島雲溟漫遊して同所にあり、大層なる仕掛けにて、庭瀬にても困りしといふ。 ・同国松山・作州勝山・同国津山等へ到り、宮執柄の勢を振ひ、何れも大に困り果て、多くの金を費せしが、津山計りは留守居出て之と応対し、直に追返せしといふ。

こは予が在京中の事にて、野口蔵人と共に、諸家共に震恐れ、多くの金費せし事の拙きを、笑ひし事なりし。

其余にも斯かる事の猶多かるべし。

四年前死去、寺は京都醒井雲仙寺 文字はかく事も知らず。以下の寺々の寺号も同断なり。文字の相違を咎むる事なかれ。雲仙寺は西本願寺末寺なり。にて、土葬なりしかば、法華寺 寺号不知。 の内へ葬りしといふ。

此者邪法を豊田貢・大坂高見屋平蔵等へ伝へしといふ。

 
 








大坂白子裏町浄光寺といへる西派の門徒宗あり。

是が檀家に大和屋十兵衛といへる者の別家に、大伊 伊兵衛とか伊右衛門とか云ふなるべし。 といへる者あり。

河内国喜佐辺と云へる所にて無量光寺  浄光寺常住の兄なり。 といへるは、浄光寺と親しき間の事なるに、別けて能弁にて、人を欺き金銀を取出す事を渡世として、本山にても自ら用ひられぬる姦悪の僧なりしが、此僧大伊をだまし込み、本山へ銀子十貫目を貸さしむ。

人をだまし金銀を貪り取るは、彼宗徒の常なれば、約定の期を過ぎて返さゞる故、無量光寺迄屡々催促をなすと雖も、少しも埒明く事なくて、大に怒り困じぬる折節、水野軍記を知れる人の、「彼を頼まば心易く取返ぬべし」といへるにぞ、

此人を以て軍記を頼しかば、心易く之を諾ひ、夫よりして此家へ入込み、主を【貝兼】(たら)しぬるに、主は本山無量光寺などの悪きと、金取戻しやらんと心易く諾ひぬるの嬉しきに、心も取乱し、大に是を饗応せしが、或時禁裏を拜せしめんとて、主を京都へ同件し、これを参内せしめ、龍顔を拜し、天盃まで戴きしとて、大に是を悦び、数々金を出せしといふ。

如何成事をなして、斯く欺きし事にや、これらは全く切支丹の邪法なるべし。其後も頻りに金銀を取られぬる計りにて、西六條の銀は聊も手に入らすしで、漸々と其山師にかけられしを悟りぬ。

始め心易き人々の、「こは良からぬ事にして欺かれなん。こは世間にていふ山師なるべし」とて、稍ゝに此事を止めぬるを、之を聞入る事なくて其事を為し、斯かる様なれば、大に之を後悔し、人々へも合はす面なしとて恥憤りしが、忽ち病を生じ、之が為に程なく命をも亡ひぬといふ。

斯かる事にて、先年は大切なる檀家を失ひ、今又切支丹の為めに斯く苦しめらるゝ事の情なき事よとて、彼寺の梵妻この事を予に語れる侭をしるす。

 
 





軍記妻子共召捕られ入牢せしが、牢死せし共又御仕置の日断罪となりし共いひて、其の委しき事を知らず。

併し十二月五日御仕置百人余、其内子供両人討首なりし由は、高島雲溟に御奉行所用人の語られしと聞けば、此の者打首なりしにや、其名を聞かざりしかば詳ならず。

又町小使を渡世とする者、軍記へ頼まれ、唯だ一度同人の手紙持行きて人へ届けやりし事ありしとて、此者迄召出されて、鳥目三貫文の過料なりしといふ。

其余親しくせし者などは、これにて思ひやるべし。

 
 


雲仙寺、十二月五日退院仰付けけれ、本山へ御渡にて、寺法通に取計るべしとの御上意の由。本山よりも同様の言渡にて、親類へ立寄り侯事相ならず、家内は親里の事なれば、無量光寺へかへすべしとなり。

此の如く公儀の科人なれば、京地にて差当り家貸す方もなく、親類へも立寄る事ならざれば、其日より大に困窮せしといふ。この寺も浄光寺の親類なれば、同寺にて聞けるまゝを記す。

軍記屍を葬りし法華寺も、同日退院の由。其余種々の風聞あれ共、事のくだ\/しきと、詳ならざるとにて、之を記す事なし。

 


石崎東国『大塩平八郎伝』その37


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