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2001.10.20修正
2000.6.23

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「大 塩 中 斎」 その7

井上哲次郎 (1855−1944)

『日本陽明学派之哲学』冨山房 1900より
(底本 1908刊 第6版)



改行を適宜加えています。

第三篇 大塩中斎及び中斎学派
第一章 大塩中斎 
第一 事 蹟
 (7)

天保四年は中斎に取りて最も収穫多き年なりき、彼れは此歳を以て洗心洞箚記と儒門空虚聚語とを脱稿して上木せり、

箚記は彼れが独得の学説を叙術せるものにて、其主義本領全く此に存すといふべきなり、箚記の成るや、彼れ其一本を伊勢の朝熊嶽の絶頂に燔き、以て天照大神に告げ、又一本を富士岳の石室に蔵め、以て人を俟たんと欲す、

時に適々伊勢の足代弘訓中斎を訪ふ、中斎之に告ぐるに其志を以てす、

弘訓乃ち神宮に豊宮崎林崎の両文庫あることを告げ、燔かんよりは奉納するに若かずと慫慂す、中斎以て然りとなし、此歳の秋先ず富士岳に登りて箚記を石室に蔵め、尋いで伊勢の山田に到り、弘訓の紹介を以て箚記を両文庫に奉納せり、

中斎何故に此挙に出でしかといふに、彼れ自ら曰く「是れ乃ち意の在るあり、而して人の知る所にあらざるなり」と、

彼れ其箚記に寓せる精神を不朽に伝へんとするか、或は其記する所を以て神明に告げんとするか、抑々又将に来たらんとする災難を予想して、其書を万一に救はんとするか、何れにせよ、奇異なる所為といふべきなり、

中斎は箚記外、朱子文集、古本大学、及び伝習録を豊宮崎林崎の両文庫へ、陸象山全集を豊宮崎文庫へ、王陽明全集を林崎文庫へ奉納し、以て国家の為めに洪福を祈れり、其跋文五篇あり、曾て「奉納書籍聚跋」と題して刊行せるも、其書多く世に伝はらず、故に左に之れを掲ぐ、


大塩中斎絶板書目


井上哲次郎「大塩中斎」その6その8
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