Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.4.29訂正
2001.4.26

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大塩の乱関係論文集目次


「大 塩 平 八 郎」
その9

『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より


◇禁転載◇

  四 延命の余地なし

 大塩平八郎父子は家に火を放つて自殺したので、死体が焼爛して相貌もはつきり分らなかつたといふ。こゝに彼が薩摩や欧洲へ脱走したといふ浮説の生する余地があつたと思はれる。史的人物の上に常に働く人情と好奇心の悪戯である。しかし、大塩の場合では、放火自殺の以前、顔を捕手に見られてゐる。捕方の与力同心は大塩と同じく町奉行に奉職してゐたから、彼の言葉付や容貌も知つてをり、且つ三度までも大塩と言葉争ひをし、火中ながら自裁の模様を目撃し、さらに土井の家臣に投げつけた脇差も大塩の愛用のものといふから、大塩の火中の自殺を曲げることは出来ないであらう。

 また跡部山城守・堀伊賀守の両人が大阪城代へ申し報じた始末書『大塩平八郎父子居所相知自殺仕候儀申上候書附』には、

とある。火勢強く寄付き兼ねたといふ事実も捕手の臆病を物語つてゐるかも知れぬが、とにかく斯様な次第と知つてよからう。況してや、当時の官之助、後の克復翁の談話に、平八郎は、『首が脹れ上つて肩と一様になつて、頭の無い人かと思つた、蛙の様なもので、上に引上げて見ました時は脹も引て、面体 は鮮かに分つて居る、彦次郎は始めに見留ました時、其投出した脇差は年来同僚で有た故、見覚への有るものでござりました、格之助は反ツ歯でごぎいまして、夫れも其歯をムキ出して居りました。』(史談会速記録)とあるから、平八郎父子の生存説の存在する余地はない。

 さて大阪城代は右の町奉行の申報書を得て、さらに事実を確めた上、大塩父子に相違ないといふ証拠を備へて之を江戸表へ報告した。そこで幕府では、国内へ触れ廻してあつた大塩父子の逮捕令を取消したのである。

 大塩父子の欧洲落ちの伝説も時によつては面白いが、徒らに異境に生延びたまゝで朽死したでは詰まらぬ。何かの趣向を施したら如何であらう。

 因みに、史上人気のある人物の生存伝説は実に多い。源義経の蝦夷落ち、豊臣秀頼の薩摩落ちは有名であるが、このほか明智光秀の濃州、石田三成の出羽潜居説、真田幸村・後藤基次の九州落ちなどがある。近世では平賀源内やこの大塩平八郎が止めかと思ふと、西郷隆盛の露国落ちがある。

 大塩平八郎と共に、叛将ながら妙に性格的な魅力を感ずる明智光秀、光秀は時代も遠いから、何とかして落ち延ぴさせたくもあるが『兵家茶話』が濃州武芸郡へ隠れて改名し、のち関ケ原に出陣の途すがら溺死したといふのも、好事家の捏造した虚誕が見え透き、一方では秀吉の書簡や和州多聞院日記や吉田兼見卿の日記が控えてゐて、如何ともなし難いのである。


〔今井克復談話〕その6


(異説日本史)「大塩平八郎」目次その8その10

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