Я[大塩の乱 資料館]Я
2001.5.1
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大塩の乱関係論文集目次
「大 塩 平 八 郎」
その10
『異説日本史 第6巻』雄山閣 1932 より
◇禁転載◇
三 不倫の私行は事実か
一 養女に通じて子をなすといふ説
聖賢の道に徹せんとし、これを多くの学生に講じ、果ては万民救の旌幟まで押立てた大塩平八郎に、不倫の私行が伝へられてゐる。当時大塩家は、隠居の平八郎・その妾ゆう・当主格之助・格之助の妾みね・その子弓大郎と養女いくの六人暮であつた。不倫の私行といふのは、格之助の妾みねと通じて弓太郎を
挙げたといふのである。この密事はまづ吉見九郎右衛門の密訴状に、
倅え可娶合積之養娘を竊に自分妾にいたし、男子出生仕候に付、殊之外相歓、云々。
と認められてゐる。これによつて、平八郎父子の裁許書中にも、平八郎が養子格之助に娶する約束で養つた橋本忠兵衛の娘みねと通じて、弓太郎を挙げたと書いてある。
平八郎の妾ゆうは、曾根崎新地の大黒屋の娘で、橋本忠兵衛の義妹として大塩邸へ来たので、この上忠兵衛の娘みねにも通じたといふと、常人にしても道ならぬ所行で、況んや平八郎に於てをや。忠兵衛は摂州般若寺村の庄屋で、文化八年以来平八郎の門に出入し、相応に読書力を備へた人であつた。さて、評定所の吟味書にも、真の自白か否かは明らぬが、左のやうに書上げられてゐる。
みね儀は、前書忠兵衛娘にて八ケ年前より平八郎方へ罷越、末々は養子格之助妻に可嫁合契約も有之候由之処、格之助へはいく(格之助の叔父宮脇志摩の娘である)を嫁合候由にて、四ケ年以前七月頃平八郎より密通掛、其意に随ひ及密会、夫より同人妾に相成候得共、平八郎儀は儒学相好、門人共も数多有之、留学之ものも不少候付、其もの共の手前を憚候哉、ゆう・みねを妾にいたし候儀は深く相包候様子にて、屋敷内にて別間を補理、私共儀は其所より決して外へは出不申、門人共は不及申、格之助にも絶て面会不致儀にて、みね儀は去申十二月男子致出生候処、平八郎儀当時大塩姓相名乗候得共、元来今川義元庶流に付、男子は本姓為相名乗候由にて今川弓太郎と名付、竊に養育罷在候、云々。
果して、この醜行が事実であらうか。学者であり、義人であり、剛直・潔癖・真摯を以て称されるが、精悍にして激情的な平八郎にはかゝる性的一面が存したのであらうか。
石崎東国「大塩平八郎伝」その64
「浮世の有様・遠州稗原村村上庄司より来状の写」 その4
「大塩平八郎挙兵の顛末」その1
国立史料館編『大塩平八郎一件書留』p188
(異説日本史)「大塩平八郎」目次/その9/その11
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