Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.3.3訂正/2002.12.3

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「大 塩 平 八 郎」

−太平天国の建設者大塩格之助−

その1

石崎東国

『中央史壇 第2巻第5号』国史講習会 1921.5 所収


適宜句読点を入れています。


△我が大塩平八郎父子が、大阪乱後支都(那?)に亡命して、遂に彼の地に於ける太平天国の建設者と成つたものであると、云はヾ日本人も支那人も今更喫驚りして卒倒するか知れない、併しながら是は源義経が北海より韃靼に渡り、遂にジンギス汗の祖先と成つたといふよりは、事実に近い話で、満更吾等の牽強附会の造言ばかりでない、支那に於ても、太平天王洪秀全の人物に就ては、日本人であつたといふ俗説もあるばかりでなく、行軍兵略の点から王国の組織に至るまで、日本人ならざれば為し得ざるものが多い、斯ういふ説と大塩父子の支那亡命の逕路から綜合して、太平天国の建設者が大塩平八郎父子であつたといふのは、吾等の捏造に係るものでないことを、吾等が有するだけの材科に依て書て見たいと思ふ、但此の記述に依て大塩先生の価値を疑問とするものが出来たとしても、そは大塩先生の罪にあらずして、責任は之を断案する吾等に帰すべきことは言ふまで(も)ない。

△太平天国とはドンナものであつたか、先づ之が概況を陳べて置かなければならぬ、太平天国とは清朝に長髪賊とも粤匪とも称し、又は太平革命とも称せられたもので、之が党首は広東の洪秀全といふもので、売卜者であつたが、広西潯州府に来て上帝会に入り、当時粤江一帯の飢饉に当て、之を救はんが為め兵を起したのが道光三十年(即ち西暦千八百五十年我が嘉永三年)であつた、是れより四方を経略して南京に入て太平天国を建設し、十五年間王位を保つたが、後に上海に攘夷軍を向けた為めに遂に失敗を取つて滅亡したもので、其の間支那本部の十六省に亘て六百余城を攻略した、斯かる大革命は清朝ばかりではない、支那歴代の間にも余り多く見ない出来事であるのだ、吾等は此の頭目洪秀全大塩格之助だといふのである。

△扨て此の筋書を為すべきものは、大塩先生はどうして支那に亡命して行かれたかの逕路である、御承知の如く、大塩先生は騒動跡に姿を隠した、是れに就ては近畿各藩の諸侯は云ふに及ばず、津々浦々に人相書を以て触渡され、密綱国中に張満ちたれば、天を翔る翼、地を潜る足ありとも、モハヤ遁るべきやうはあるまいと噂された程であつたが、斯る際こそ却て身を隠すには仕合せなりけん、天満水滸伝と称する当時の草紙には、

△三月の初旬大阪より八里隔りたる菟原郡摩耶山刀利天上寺の僧徒より山中に怪しき者籠り居りぬ多分平八郎が輩ならんと奉行の許へ告たりければ、町奉行の与力同心等夜中松明振り照し、案内者を先に立て彼の摩耶山へ登りけるに、其半腹に到りし頃彼案内者突然失せしに此は天狗の所為ならんと人々恐れて立戻り、又も案内者を求め登りけるに是も跡方なき事にして怪しきもの更に見へず。

△又大塩は兼てより心懸し事なれば、若し此の事の成就せざれば、斯様々々と手段し置き竹島(隠岐群島の一)と云ふへ渡行せしとも、或は切支丹の妙術を豊田貢が手より没収せる彼の書物にて習ひ覚ヘ、深山幽谷に身を蟄し気を呑み霞を啜り居るならんなど風説区々にして行衛知れず、因て渠等父子自殺せしを一味の者の其の内にて、彼の屍を隠さんとて埋み負せしも計り難しと、野山の新らしき施主なき墓など堀発きて改められ、世にいふ草を分けての詮義なりしも其行方は更に知れず。

△彼の高野山は、昔より如何なる悪人たりとも一度登山せしものは隠匿し置こと寺法なりと言伝ふれば、此処へも隠密を入れて探りけるは、高橋茨田が輩迯登り一夜泊て追下したれば高野山には居ざりしと、また和州吉野山の十五里計奥に当る十津川廿四ケ村は、大塔宮に御味方せしより其賞として鎗十本づつ御許しにて、諸国よりして逃来る者を隠匿し置くも、御咎なき掟なれば此上は彼村内を詮義なすより詮方なけれど、如何にせん、彼処は容易に捕方を差向け難き処なれば、其手筋より申達し然して後踏込み然るべしと種々評議し及びける内、又々種々風説ありて彼是日数を費しつヽ、凡そ三十余日を経るも父子が所在知れざりける云々。


「天満水滸伝」その39
石崎東国


「大塩平八郎」目次/その2

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