Я[大塩の乱 資料館]Я
2002.10.9

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大塩の乱関係史料集目次


『天 満 水 滸 伝』
その39

石原干城(出版)兎屋誠(発兌) 1885

◇禁転載◇

適宜、読点を入れ、改行しています。


○大塩父子自殺の事 (1)

古語に曰く、天網恢々疎而不漏とハ、悪をなす者天誅を遁れざるを説なり、

抑々天満の変事、大塩一人が悪謀よりして、大坂市中の動乱言ん方なく台庁をも驚かせしに、因て摂津近辺の諸侯に令し、大塩が余類を追捕せしむ、

津々浦々はいふ迄もなく、人相書を以て触渡され、密網国中に張満たれバ、天を翔る翼、地を潜る足ならバ卒(いざ)知らず、何国(いづく)如何なる山川林間に、其形跡を隠し負さんや、

爰に於て、逆徒ども追々自殺し、或は捕ハれ、今ハ早大塩父子と、又正月中出奔せし河合郷左衛門のみ、其行衛知れず、或は雲州邸へ忍びしとの風聞ゆゑ、捕方彼邸へ向はれしが、是空談にて其影もなし、

又三月の初旬、大阪より八里隔たる菟原郡摩耶山功利天上寺の僧徒より、峯に怪しき者籠り居りぬ、多分平八郎が輩らならん、と奉行の許へ告たりけれバ、町奉行の与力同心等、夜中松明振照し、案内の者を先に立、彼摩耶山へ登りけるに、其半腹に至りし頃、彼案内者、突然失しに、此ハ天狗の所為にやあらん、と人々恐れて立戻り、又も案内者を求め登りけるに、是も跡方なき事にして、怪き者更に見えず、因て人々下山なし、段々其様子を尋ね探るに、全く此山の僧徒ども、常に心懸宜しからず、毎々金銀を掠め取由聞へたれバ、捨置がたく、右訴へをなせし僧徒等 を召捕、大坂へ連帰りける、是を見て大坂の諸人等、既に平八郎ハ、坊主になりて摩耶の山奥に忍び居しを、奉行の手に召捕れし、と専ら申合りしとなん、

又大塩ハ、兼てより心懸し事なれバ、若此事の成就せざれバ、斯様\/と手段なし置、竹島といふへ渡海せしとも、或ひハ切支丹の妙術を、貢が手より請得たる、彼書物にて習ひ覚え、深山幽谷に身を蟄し、気を呑み霞を啜り居るなん、と風説区々にして行衛知れず、因て渠等父子自殺せしを、一味の者の其内にて、彼屍ねを隠さんとて埋み負せしも斗り難し、と野山の新しき施主なき墓など堀発(あば)きて、改められ、世にいふ草を分ての詮義なりしも、其行方ハ更に知れず、彼高野山ハ、昔より如何なる悪人たりと雖も、一度登山せし者ハ隠匿(かくまひ)置こと寺法なり、と言伝ふれバ、此処にも隠密を入て探りけるに、高橋茨田が輩迯登り、一夜泊て追下したれバ、高野山にハ居ざりしと、

また和州吉野山の十五里許奥に当る十津川廿四ケ村ハ、大塔宮に御味方せしより、其賞として村々へ鎗十本ヅゝを許しにて、諸国よりして迯来る者を隠匿置ても、御咎なき掟なれバ、此上ハ、彼村内を詮議なすより詮方なけれど、如何にせん、彼処(かしこ)は容易に捕方を差向難き処なれバ、其手筋より申達し、然して踏込然るべし、と種々評論に及びける内、又々種々の風説ありて、彼是日数を費しつ、


「浮世の有様 大塩の乱」その17


『天満水滸伝』目次/その38/その40

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