Я[大塩の乱 資料館]Я
2000.9.1訂正
2000.8.14

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「大塩の乱関係基本文献」目次


『大 塩 平 八 郎 伝』 その1

石崎東国著(酉之允 〜1931)

大鐙閣 1920

◇禁転載◇


収録にあたって、適宜改行しています。

自 序

 粛啓 大塩中斎先生年譜此頃漸く脱稿致し候につき奉供高覧候、御承知被下候通り、

大塩先生事蹟調査は洗心洞学会設立以来の計画に有之、既に十年の星霜を経て史料も相当蒐集いたし、時々陽明誌上にも発表いたし参り候事に候へども、多く断片的に相成纏り申さず、

因て大正四年頃より大塩研究なる命題の下に筆を執り、昨年三月頃までに凡そ十二冊を書き上げ候、

然るところ之は命題の既に大塩研究と称する如く、批評論伝体と相成、史実としてよりは寧ろ講論に重きを為すやに相見え、著者としての自分には言ふべきだけ存分に言ひ現したるには満足され候も、史実としての先生を顕はし、且つ他の史実上に於ける先生を求むるものには些と変なるものと相成候事に気附き、其方はそれきり終に之を止め、

更に昨年四月大塩平八郎先生年譜略を編纂するに決し起筆仕候、勿論材料は大塩研究に現はれ候ものに取り候へども而も年譜となれぱ這は又容易ならざる困難を発見いたし候、

由来年譜は事蹟人物相当顕著なるものにても却々困難も有之哉に候処、御承知の通り天保の一挙幕府役人の力めて事蹟を塗抹し、当時社会人心より先生を忘れしむるを以て一時の政策としたる上、当時の交友門人等の中にも或は累の身に及ばんを恐れて晦滅に力めたる後なれぱ、真実文献の徴すべきもの少なく、其の僅にあるものは評定所吟味書裁決書の如き現在今日に存し候へども、それすら畢竟拷問の結果にあらざれば、臆病者の讒誣構陥到底悉く信ずべからず、

即ち巷間の伝説却て之より真実を伝ふるものすらあり、是等の材料を基礎として作られたるもの天満水滸伝、天保太平記、塩賊伝、梅匪凡、大塩平八郎言行録、大塩平八郎実記、青天霹靂、塩賊回天記、等数限りも無之候へども、伝説は伝説なり、

年譜編輯に必要なる年紀紛乱容易に明らむべくも之れ無く彼此欠点ばかりにてホト\/困り候へども、尚ほ幸に先生の遺著詩文の如きあり、

又多年の蒐収する所にして目下編纂中なる洗心洞外集あり、之を以て文献の欠漏を補ひたるも、而も亦是のみを以て百ケ一にも足れりとすべからず、咬菜秘記、浪華騒擾記、行雲流水、洗心洞余瀝は言ふに及ばず、口碑断片苟くも先生に関するもの或は舸に乗じ、或は山に探り、漸くにして昨年八九月第一稿を得たり、而も只僅に綱領のみ、本年一月又之を清書するに至れば、左支右吾却々思うて十ケ一に及ばず、兎に角書き上げたるもの此の稿に御座候。

 即ち以上の如く尋常人の年譜には無之候間、従而編輯方も随分勝手なる方法にて、普通年譜と異る所有之、寧ろかゝる変態編輯法も年譜として許さるるならぱ、確に年譜編輯上一型式の創造に御座候、其の意は左記にて御承知可被下候。

一、
年譜中間々伝説を引用せる所あり。此れ蓋し一は正史を失ひたる先生伝に於て止むを得ざるに出てたる場合多し、而も亦一面には古老の諸説史実の前後と相照応して去るべからざる場合あり、尚ほ時に史実に関せず、単に当時の伝説として先生の年譜と共に之を存する以て、世相人情を解くの一端と見るべきが如き吾之を挙げたり、蓋し厳格に言はんには神秘の外に偉人なく伝説の外に先生なしといふも妨げざれば也。
一、年譜中本文の年紀及び事蹟の出所を例証するが為に、其の引用原書の一節を一字下げに畢く抄出採録せり、是れ此の年譜の一事一説と雖も苟くも著者の独断に依るに非ずして、史実伝説みな考証の拠る所あるを示さんが為にせり。
一、年譜中処々按語を加へたること多少意の存する所なり、而して按語に二種あり、或は事件の解説の為にせるもの、及び著者一己の評論に係るもの、即ち解説を加ふるにあらざれば事件の真相を解し難き場合あり、評論を用ゆるにあらざれば従来諸書の妄断臆説間々人を誤るものあり、而して按語中又考証あり、引説あり、蓋し解説評論と雖も根拠する所あるを示さんの意に出でたり。
一、年譜中時々歴史年表を附記し、或は人物事件の必ずしも先生と直接交渉なきものにして之を附載せる処あり、此れ当時の時代并に社会の形勢事情を細説する能はざる年譜に於て、一読大抵時代的背景を概見し得べく。且つ先生の学問事業が国家社会の隆替消長と如何の関係接触あるかを示さんと欲してなり。

其他或は何、或は何、今畢く茲に言はず、即ち本書は先生の年譜にして評林なり、又事蹟考にして伝説史なり、是れ他の年譜に異るところ、又本書に於て止むを得ざる也、而も多く衆説を聚めて敢て独断せざるは所謂述而不作の遺意に依り、力めて偉人の真骨頭を伝へんとしてなり、若夫れ先生の大義高節の処に至ては、余の信ずる所に従て論断し苟くも敢て譲らず、又窃に以て春秋の筆法に学ぶ所以なり。

 若それ先生の学術に至つては、姚江の流を酌んで陽明王子の説未ず及ばざる所を究めて別に日本哲学の一派を起し、江西の学伝を欽仰して藤樹蕃山二子の博綜なるより塩子学術の純正なるを開ける、先輩既に定論あり、弔民唱義の一挙空しく敗れて其鬼未だ祀られずと雖も、其学伝へて幕末には勤王の先駆となり、維新の際には民権の開宗を以て称せられたる、一に先生学術の純正之を啓くにあらざるはなし、而して其説洗心洞箚記以下の遺著に味ふべく、年譜に細叙せず、蓋し一小冊子の能くする所にあらずして、著者別に箚記標註の執筆中に属するを以て也。

 以上聊か陋撰年譜に就ての用意と態度を開陳せるものに御座候、思ふに先生の事蹟茲に尽くと為すべからず、僕の浅学寡聞亦遺漏多かるべし、之を完成するは後賢の任也、余や只義人の事蹟の欠けたるを慨し、微力を測らず茲に此の事あり、敢て賢台の瀏覧に供へ候、幸に御指摘御高教を得て全を為さぱ幸甚之に過ぎず候。

 然りと雖も僕の本書を編纂するに至れる、偏に先輩諸彦及び同好諸子の熱心なる援助に依らざるは無し、若し一々にして其名姓を挙げんには数十百にして足らず、故に今略に従ふも、其功労に至ては蓋し洗心洞外集を読むもの能く之を知るを得ん、外集は是等先輩同好諸賢の発見と余の探訪と相半ばす而して年譜実に材を外集に取る多し、是れ諸君子の力にあらずんば余一人の為し得る所に非ず、此れ僕の最後に賢台の左右に謝し、又併せて益を与へ工を助けし同好諸子の労に謝する所以の意を致す次第に御座候。

     大正七歳戊午秋八月十四日  
         洗心洞後学 石 崎 東 国

管理人註
・『中斎大塩先生年譜』(2巻2冊)は内容は同じものです。
・「洗心洞箚記」の「箚」が「剳」になっていますが、「箚」に直しています。


石崎東国「大塩平八郎伝」目次その2

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