「大塩の乱関係論文集」目次
大鐙閣 1920
◇禁転載◇
天保四年癸巳先生四十一歳 (8) | |
五穀凶歉穀 価騰貴初テ 天下飢饉ノ 声高シ |
是年三月遠藤但馬守胤純玉造組城番トナル ○六月西町奉行久世伊勢守長崎奉行ニ転任シ、七月八日矢部駿河守定謙堺奉行ヨリ転シテ西町奉行トナル、夙ニ名府ノ声誉アリ ○八月跡部山城守良弼堺奉行トナル。 是年八月朔日暴風雨起ル数日ニシテ止マス、関東殊ニ甚タシ、五穀凶歉穀価日ニ騰貴ス、天下是ヨリ漸ク飢饉ノ声喧シ、播州ノ民一揆騒擾ス人心恟々タリ先生平松楽斎ニ送レル書中ニ云
天満水滸伝云 抑も今年の飢餓といふは、全く今茲一年の凶作に因て起るにあらす、文政の末年より引続き違作せし上、今年八月朔日の大風雨にて関東殊に不作にて一升二百五十文の価に至る、此くの如きの凶年ゆへ米価は更なり諸式の価一度上りて下るときなく、唯々大阪のみ米価一升につき百五十文より二百文を限りとす、是は矢部駿河守殿政命宜しきに因るものにて、大阪には来秋まての飯米乏しからねは也云々、 |
矢部駿州ノ 救済策 |
按スルニ矢部駿州ノ救済策ハ幕府ニ建言シテ江戸廻米ノ督促ヲ抑制シ、西国諸侯ニ乞フテ大阪廻米ヲ増加セシメ、堂島米市場投機ヲ厳ニ取締リ、穀価ヲ平準スルヲ其ノ一般政策トシ、市中窮民ニ対シテハ難波、川崎両官廩ヲ開キ、島町及漿棊島ノ籾蔵ヲ発シテ之ヲ低価ニ分配シ、又市中豪商ニ諭シテ二回マ
テ金穀ノ醵出救済ヲ為サシメタル等最モ其ノ機宜ヲ得タルニアリ、初メ駿州ノ堺ニ来ル時、先生致仕シテ職ニアラサリシモ、先生ノ吏務既ニ関左ニ鳴ルモノ駿州早ク之ヲ熟聞ス、駿州堺ニ治スル三年政蹟大ニ挙ル、此ノ時先生野ニ在リト雖モ亦能ク確聞ス、是ヲ以テ駿州ノ大阪ニ入ル、先ツ其子鶴松君ヲ洗心洞ニ入レテ教育ヲ托シ、又先生ヲ引テ賓ト為シ政治ヲ顧問ス、頗ル献策スル所多シト称セラル、駿州ノ救治策宜ヲ得タル以アリト謂フ可シ。 東湖随筆云 平八郎は所謂肝癪の甚たしき者也、与力を務むる内豪富を折し、市民を救ひ奸僧を沙汰し邪教を吟味したる類天晴の吏といふべし、又学問も有用の学にて中々黄吻書生の及ふ可きにあらす、某(駿州自云)奉行在役中度々 燕室へ招き密事をも相談し、又過失をも聞き益を得る事浅少ならす、言語容貌決して尋常の人にあらす、某曾て平八郎を招き共に食を喫せし折節、金頭と云へる大魚を炙り出せり、時に平八郎憂国の談に及ふ時、忠憤の余り怒髪衝冠とも云ふべき有様故余程に慰諭しけれとも、平八郎益々憤り金頭の首より尾までワリワリ噛み砕きて食ひたり、翌日に至り家宰某を諌めて曰く昨夕の 客は狂人也、夢々高貴の御方可近にあらす、爾来奥通り指留め給へと、実に某が為を思ひて云ひけれども、汝か知らん所に非すとて始終交を全ふせり此一事小なりと雖も平八郎の人と為りを知るに足れり 按スルニ国乱テ忠臣出テ家貧フシテ孝子顕ハルト、今年此飢饉ニ及ンテ世人先生ヲ懐フモノ多シ、其足代弘訓ノ問ニ答フル書中ニ云フ
![]() 猪飼敬所ノ川村貞蔵ニ送レル書中ニ云フ。
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