Я[大塩の乱 資料館]Я
2003.4.20

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大塩の乱関係史料集目次


『事 々 録』 (抄)

その37

三田村鳶魚校訂

 『未刊随筆百種 第6』米山堂 1927 収録

◇禁転載◇


天保八丁酉年

大塩暴発、(1)

二月十九日辰ノ中刻、天満川崎組屋舗より出火、此の日晴明にして東風漸々に吹てさのみの事とも思はれ候はぬに、御城代土井大炊頭利位卿御本丸御上りの触有之候、そも\/御庭(マゝ)りは大火に営中近辺ならでは容易に無之候故、我人不審に存候処、是は町司の密訴故なりと後に承候、

かくて巳の刻過るには艮の方の火事、風上に乾の方に二筋三筋煙立昇り、見る\/大火に相成、折ふし竹の刎候音にはあらで炮声の響きこへ申候、御鉄炮方石渡彦太夫、御手洗伊右衛門、御其足方上田五兵衛、祖父江孫輔御弓方鈴木治右衛門 今一人は兼役上田五兵衛 等俄に御城入、御櫓、御多門之御武具ども多く運ひ出、追手升形へは土俵にて大筒を居ヘ、御門外へも柵をふり、大炊頭殿藩臣甲冑下に著て火事装束陳列いたし、追々走附たる尼崎松平遠江守手勢、岸和田岡部内膳正手勢等厳重に堅メ候、某*1仁科次郎太郎は持場西丸に守衛いたし、桷御櫓は同列山中市郎右衛門、小野勘解由相詰、御番衆も拾六人、御番所を堅メ、破損奉行小林清之丞は同列の国□予左衛門病気引籠壱人して奔走なし、御番頭菅沼織部正殿、北條遠江守殿御番所に相詰られ、御定番京橋米倉丹後守殿いまだ上坂なければ、玉造遠藤但馬守殿御目付代中川半左衛門、副士犬塚太郎右衛門、御蔵方島田三郎右衛門、比留間兵三郎、仮役小谷太郎右衛門、曲淵甚右衛門、御金方幸田金一郎今一人は兼役石渡 仮役小幡監物、小沢猪三郎、夫\/の持物を堅メ、加番山里土井能登守中小屋井伊右京亮、青屋口米津伊勢守、雁木坂小笠原信濃守等も巌重に相守り、御船手本多大膳は船手を相守り候、

追々火勢盛んに天満を残らず焼きつくし候て、只御破損奉行森左十郎、榊原太郎右衛門が御役宅及村木(材木?)御役析をのこし、末は堀川に限候、天満橋、天神橋焼て、島ロ(島内?)をはじめ今橋通リ船場も余程焼失、

是は是、天満与力格之助隠居大塩平八郎あらぬ逆謀にて町奉行跡部山城守、堀伊賀守巡見の節、党を集メ討果さんとしけるを、同心平山助次郎、吉見九郎右衛門一味の中より心変りして両奉行へ此密計を告たるにより、跡部の方に十八日夜詰、与力一味たる小泉淵次郎、瀬田済之助を糺問の時、小泉は藩臣の為に斬害され、瀬田は遁去り候故、平八郎事露顕を知つて、かねて組したる摂州盤谷寺村*2の庄屋忠兵衛か配下の在民、刀鎗火器をあつらへおける守口の油屋三郎兵衛*3 等が力をもつて、同列一味とともに近隣に火砲を放チ、自宅に火をかけ、市中へ群出なしたるを、淡路町にて両町奉行の与力同心、加勢の玉造京橋の面々に追はれ、火術の棟梁たるべき者を討取られ、凡五百人計散乱して迯失たり、死亡の首をとつて鑓につらぬき、生捕を引て奉行の手勢は引取ける、

此後の火勢数軒一度なれば中\/に止りかたく、廿日終りにして其夜の亥の下刻御弓町にて火は鎮りぬ、此二日二夜は営中枕を安んせず、

御城前の原地には焼亡の市人、家財とともに野宿して、老若男女の周章大かたならず、廿一日暁天より大雨にて余煙は是か為におさまれども、野宿の市人、泥水にたヽよふさま、目もあてられず候、

時に五穀不毛の上に今度の火災、賤しき者いかんともする事あたはず、よりて玉造御蔵より米五百俵をば御救として市人へ下さる、天満橋前後に小屋を立て家なき者をめぐませらる、


管理人註
*1 『天満水滸伝』その26には 「西丸并びに御舂屋にハ、御塩噌奉行堀田重兵衛、仁科太郎次郎」とある。
「浮世の有様 巻之七 大坂城代変を察知す」 には「一、玉造丸御蔵新御塩噌御奉行堀田甚兵衞・仁科次郎太郎以差遣手玉造へ篝焚き申候。」とある。
「某」(筆者)は堀田重兵衛(甚兵衛)か。
*2 般若寺村が正しい。
*3 質屋白井孝右衛門(前名三郎右衛門)のことであろう。


「御触」(乱発生後)その1「補達578」


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