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伝『コラ、コラ、其親爺に用は無いから、家へ帰らせるが宜い』
い
卯『喜兵衛、其方は此処に居ちやア可けないから、立て/\』
喜『ヘイ……』
と云ひながら不思議さうに、卯吉の顔を見て立去りました、伝左衛門は
椽端へ膝を進め。
伝『コリヤ、其方は何と申すか』
絹『ヘイ、きぬと申します』
伝『其方、先刻此処に居る手先の卯吉が、小間物屋と相成つて、其方の
家に参りし時、大阪表にて、下女奉公を致して居つた時の事を話したさう
ぢやが、今一応と詳しく話して聞かせよ』
お絹は買物の事で叱られるかと思ふと、然うではない、大阪に奉公中の
事を話せと云はれましたので、却つて安心を致しました。
どう
絹『私が奉公をして居た間の事なら、何事に寄らず申し上げますが、何
ぞ
卒此縄をお解きなすつて下さいまし』
伝『縄は直ぐに解いて遣はすが、尋ぬる事は速かに申さんければ相成ら
ぬぞ』
絹『ヘイ、申し上げます』
をつ
伝『大阪は何処の何と云ふ家に奉公をして居たか』
絹『靭の油掛町で、美吉屋五郎兵衛さんと云ふ、更紗染屋に居りまして
ございます』
伝『其美吉屋の家内は都合幾人であつたか』
絹『旦那さんとお家さんと……』
伝『名は何と云ふのか』
絹『旦那さんが五郎兵衛で、お家さんがおつねと申しました』
と し
伝『年齢は何歳位ぢや』
絹『旦那さんはモウ六十余りで、お家さんは五十位でございました』
ほか
伝『其他の者は』
いと
絹『ヘイ、今年廿四になつてゞございました、おかつさんと云ふ嬢さん
や つ
と、旦那の孫で八歳になる、おかくさんと云ふのがございました、其他は
皆奉公人で、次兵衛どんに伊助どん、佐兵衛どん、忠兵衛どん、夫れから
かみ
丁稚の寅どんと私で、お上ともで都合十人の御家内でございます』
た
伝『其十人家内で、毎日飯米を八升づゝ焚いて居つたと云ふが、左様か』
か
絹『イエ、炊しますお米は八升でも、夫れを皆焚くのではございません、
せんまい
其中から一升足らずは、お洗米のまゝ旦那様が、神様へお供へなさるので
ございます』
伝『一升も供へた米は下げてから如何するのぢや』
さが
絹『サア夫れが不思議なので、いつも其お洗米が下つた事がございませ
あん
ん、余まり不思議に思ひまして、いつやら旦那さんに尋ねましたら、鼠が
毎日食つて了ふのぢやと仰しやいました』
いよ/\
是れを聞いて、伴伝左衛門は扨こそ 愈 怪しいと思ひながら。
伝『夫れはお前が最初奉公に往つた時から其通りてあつたのか』
絹『イゝエ、夫れは二月の末から、然ういふ事になりました』
伝『夫れに相違は無いか』
絹『決して嘘偽りは申しませぬ』
伝『別に客が来たやうな事はなかつたか、如何ぢや』
と尋ねられました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その160
中瀬寿一他
「『鷹見泉石日記』
にみる大塩事件像」
その3
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