Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.12.22

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その105

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第二十一席 (5)

管理人註
   

 『兎も角も二人共、役所へ同行いたす』  と其場から両人を、奉行所へ引立て行きました、杉山三平は血気盛りの        てむかひ                    おとな 男だから、一番抵抗をして逃げ出さうかと思つたが、孝右衛門が穏順しく                   ごまか して居るから、役所へ往つた上で、甘く瞞着して遁れやうと思ひ、其儘で 引かれて行きましたが、厳重な取調べを受け、遂に姓名を名乗ましたので、  のち 其後廿五日に大阪へ引渡される事になつた僅か此二人を護送するのに、三                               かご 十石舟三艘を用ひ、一艘の船へは両人を一人づゝ網乗物に乗せて、駕のまゝ かつ 担ぎ込み、与力同心、其他都合六十余人の者が附添ひまして、鉄砲は二挺、 尤も火縄には火を附て、淀川を下ります処は、実に近代にない有様でござ います、是に依つても騒動の大きかつた事が察しられます。  扨此大塩の一味の者は、大抵捕縛となり、また自殺を致しましたが、夫 れを一々詳しく申し上げますと、重復する処もございますから、大略をい                       のが たします、併し中にも近藤梶五郎の如きは、所詮遁れる事が出来ないと思                             はて つて、十数日の後、天満の自分屋敷の焼跡へ来て、切腹して相果ましたが、          いさま しにかた                ふるまひ 是れ等は同じ事でも勇しい死方でございます、中には随分卑怯の挙動をし た者が沢山ございました。  扨どうも肝腎の大塩平八郎父子の所在が知れない処から、日本国中津々 浦々に至るまで、人相書を廻して、厳重に捜査をする事になりました、其 人相書の文言を茲で申し上げます。  当二月十九日、容易にらざる企てに及び、大阪市中所々放火致し、乱暴  に及び候元大阪町奉行組与力大塩平八郎、並に組与力大塩格之助人相書                 大塩平八郎   一、年齢四十五年 一、顔細く長く色白き方 一、眉毛細く薄き方   一、眼細くつりの方 一、額開き月代青き方 一、鼻常体   一、耳常体 一、背常体 一、言舌爽かに鋭き方   一、其節着用鍬形付甲 一、黒き陣羽織其余着用不分                大塩格之助   一、年齢二十七歳計り 一、顔短く色黒き方 一、背低き方   一、鼻常体 一、眼常体 一、眉毛厚き方   一、歯上列二枚折れ有之 一、言舌静かなる方   一、其節の着用不分  右の通りの者有之に於ては、其所に留置き、早々大阪町奉行所へ申出で       けんぶん  べく、もし見耳に及び候はゞ、其段も可申出候、隠し置き、脇より相知  れ候はゞ、曲事たるべき候    酉三月五日  斯ういふ人相書を、天領は素より、諸藩の領地までも触れ廻して捜しま すが、如何しても知れない、モウ騒動があつてから彼是一月余りにもなり ます、尤も大阪御城代に於ても、油断なく町奉行の方へ御注意があります ので、召捕になつた者に就いて大塩の行方を厳重に取調べても、一旦船に 乗つたと云ふ事だけが分つて、其後の事は更に相分りません。


幸田成友
『大塩平八郎』
その153 

石崎東国
『大塩平八郎伝』
その121

『塩逆述』
巻之十二
その2−3























人相書(古文書)
 


『大塩平八郎』目次/その104/その106

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