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お絹は頭を下げまして、一寸考へましたが。
絹『お客などはございません』
やちう な
伝『夜中に来た者は為いか、能く考へて思ひ出して見よ、誰が来た事が
あるであらう』
と云はれてお絹は、暫らく考へて居りましたが。
さ
絹『然う仰しやると、斯んな事でございました、日は確かには覚えませ
お ほ あ れ てうず
んが、二月の末に大風雨の晩に、私は便所へ参りました処が、旦那様が真
どなた いで
夜中にお座敷で、誰何やらと話しをしてお在なさいました、併し私は眠い
すて
ので、其儘寝て了ひましたが、翌日の朝、庭の隅に濡草鞋が二足脱棄てご
ざいました』
此時伴伝左衛門に於きましては、思はずも膝を進めまして。
伝『濡草鞋が二足あつたか』
ど こ
絹『其二足の草鞋は、旦那様が、御自身で何方かへ棄てお了ひなさいま
した』
しやべ
とペラ/\喋舌つて了ひました、之ぞ詮議の好材料だから、伴伝左衛門、
大きに喜び、お絹は庄屋方に預けて、番人を附けさせて置く事に致し、早
速大阪へ立帰つて委細の趣きを鷲見十郎左衛門へ申し述べ、十郎左衛門よ
りして御城代、土井大炊頭へ上申致しましたので、伝左衛門の働らきを賞
し、是れから先づ美吉屋五郎兵衛を、町奉行の手で召捕せる事になり、土
たちいり
井大炊頭には館入の与力、内山彦次郎へ御沙汰がありました、此館入と云
うち えら
ふのは、東西の町奉行の組与力の中から選まれて、日頃御城代の役宅へ出
入をして、御用を勤むるを指して云ふので、内山彦次郎は当時西町奉行、
堀伊賀守の組与力の中でも、手腕家と云はれた有名な人でございます。
そこで彦次郎は、何でも美吉屋五郎兵衛を取逃がさぬやうに取押へ、大
かくまひ
塩平八郎を隠匿居る事は素より、其他の事をも詳細に吟味せんければ、御
城代の見出しに預つて御用を勤める甲斐がないと思ひ、常に心の利いたる
手先の長吉を召伴れて、信濃町の会所へ出張いたし。
すか
彦『長吉、貴様油掛町の美吉屋へ往つて、五郎兵衛を旨く賺して、当会
所まで連れて参れ』
かしこ すぐ
長『ヘイ、畏まりました、直引つ立て参ります』
彦『併し余り荒立て、家内一同が立騒ぐやうな事があつては相成らんか
つ
ら、其辺は能く気を注けて』
長『お気遣ひなさいますな、其辺の事は心得て居ります、細工は流々、
仕上げを御覧なすつて下さいまし』
と余計な事を云つて、手先の長吉は信濃町の会所を出て行きました、此
美吉屋五郎兵衛の宅と云ふのは、今日で申しますと、西区靭下通二丁目、
紀野国橋筋を東へ入つた処の南側、角から二軒目でありましたさうでござ
います、五郎兵衛は女房の縁に連れて、罪人の大塩平八郎父子の者を隠匿
ましてから、モウ一月許りになりますが、幸ひ今日まで無事に日を過し、
また大勢の奉公人も誰一人として知る者はございません、併し決して油断
は致しません、寝て居る間も心に掛けて居りました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その160
中瀬寿一他
「『鷹見泉石日記』
にみる大塩事件像」
その3
鷹見十郎左衛門
(鷹見泉石)
が正しい
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