Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.12.27

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その110

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第二十三席 (1)

管理人註
   

 お絹は頭を下げまして、一寸考へましたが。  『お客などはございません』    やちう       『夜中に来た者は為いか、能く考へて思ひ出して見よ、誰が来た事が あるであらう』  と云はれてお絹は、暫らく考へて居りましたが。      『然う仰しやると、斯んな事でございました、日は確かには覚えませ         お ほ あ れ      てうず んが、二月の末に大風雨の晩に、私は便所へ参りました処が、旦那様が真         どなた         いで 夜中にお座敷で、誰何やらと話しをしてお在なさいました、併し私は眠い                               すて ので、其儘寝て了ひましたが、翌日の朝、庭の隅に濡草鞋が二足脱棄てご ざいました』  此時伴伝左衛門に於きましては、思はずも膝を進めまして。  『濡草鞋が二足あつたか』                      ど こ  『其二足の草鞋は、旦那様が、御自身で何方かへ棄てお了ひなさいま した』       しやべ  とペラ/\喋舌つて了ひました、之ぞ詮議の好材料だから、伴伝左衛門、 大きに喜び、お絹は庄屋方に預けて、番人を附けさせて置く事に致し、早 速大阪へ立帰つて委細の趣きを鷲見十郎左衛門へ申し述べ、十郎左衛門よ りして御城代、土井大炊頭へ上申致しましたので、伝左衛門の働らきを賞 し、是れから先づ美吉屋五郎兵衛を、町奉行の手で召捕せる事になり、土       たちいり 井大炊頭には館入の与力、内山彦次郎へ御沙汰がありました、此館入と云                うち   えら ふのは、東西の町奉行の組与力の中から選まれて、日頃御城代の役宅へ出 入をして、御用を勤むるを指して云ふので、内山彦次郎は当時西町奉行、 堀伊賀守の組与力の中でも、手腕家と云はれた有名な人でございます。  そこで彦次郎は、何でも美吉屋五郎兵衛を取逃がさぬやうに取押へ、大      かくまひ 塩平八郎を隠匿居る事は素より、其他の事をも詳細に吟味せんければ、御 城代の見出しに預つて御用を勤める甲斐がないと思ひ、常に心の利いたる 手先の長吉を召伴れて、信濃町の会所へ出張いたし。                            すか  『長吉、貴様油掛町の美吉屋へ往つて、五郎兵衛を旨く賺して、当会 所まで連れて参れ』       かしこ      すぐ  『ヘイ、畏まりました、直引つ立て参ります』  『併し余り荒立て、家内一同が立騒ぐやうな事があつては相成らんか           ら、其辺は能く気を注けて』  『お気遣ひなさいますな、其辺の事は心得て居ります、細工は流々、 仕上げを御覧なすつて下さいまし』  と余計な事を云つて、手先の長吉は信濃町の会所を出て行きました、此 美吉屋五郎兵衛の宅と云ふのは、今日で申しますと、西区靭下通二丁目、 紀野国橋筋を東へ入つた処の南側、角から二軒目でありましたさうでござ います、五郎兵衛は女房の縁に連れて、罪人の大塩平八郎父子の者を隠匿 ましてから、モウ一月許りになりますが、幸ひ今日まで無事に日を過し、 また大勢の奉公人も誰一人として知る者はございません、併し決して油断 は致しません、寝て居る間も心に掛けて居りました。


幸田成友
『大塩平八郎』
その160 

中瀬寿一他
「『鷹見泉石日記』
にみる大塩事件像」
その3 



































見十郎左衛門
(鷹見泉石)
が正しい


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