なにがし
処が家康は天下を掌握しましたので、何某は越後の国柏崎の定番を命
ぜられましたが、程なく台命に依つて、義直公の臣となり、尾張国へ往
つて姓を大塩と改めましたが、此何某に二人の男子がありまして、其の
二男が大阪に出て、東町奉行の配下に属したのが、平八郎の先祖でござ
います、此後素と云ふ人が、何故人望があつたかと云ふと、素より学問
に明るい、王陽明の学を修め、洗心洞箚記を初め、其他種々の書物を著
すこ
した事は、今更申すまでもなく、誠に率直にして、罪を断ずるに毫しも
まひなひ
仮借する所がない、其頃ほひ専ら行はれた、賄賂を取るなどの事は至つ
て嫌いで、飽くまでも正しい人であつたから、自然人から尊敬されまし
たが、其替はりにまた肝癪持のやうな処もあり、一旦自分が斯うと思つ
た事は、飽までも貫徹させると云ふ気風でありました。
文政年間、此平八郎が勤役中に、泉州岸和田五万三千石、岡部筑前守
の領分の百姓が、地所の争ひから一揆の騒動を起し、領主の役人の手に
合はぬのを大塩平八郎が公明なる裁断に依つて無事に納めた事がある、
そも/\ ほとり
是れが 抑 名を現はす始めで、其次ぎには京都は清水阪の辺八阪上る町、
てう あ
恰どアノ三年阪、是れも今日では三年阪と申しまするが、彼の辺に加持
祈祷を以つて愚民を惑はします豊田貢と云ふ妖婦を召捕りました、夫れ
しれもの
からまた後に西町与力、弓削新左衛門と云ふのが、奸悪の痴者でござい
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まして、種々の罪を犯したのを、大塩平八郎は新左衛門をして、切腹を
さ
為せた事がございます、是れ等の事から大塩平八郎は、名声を揚げまし
たのでございますが其豊田貢召捕りの一條と、弓削新左衛門に詰腹を切
らせた事を詳しく弁じて居りますと、余り長講に相成りまするから大略
はじめ
いたしまして、天保年間に起りました騒動の端緒から、詳しく述べる事
にいたしまする。
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