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いろ/\ しよもつ
大塩中斎後素先生の事蹟に就きましたは、近来種々の書籍が出来て居
まなこ その
るやうでございますが、今日の学者が今日の眼を以て調べたものと、当
ころ
時に実地を目撃し、また詳しい事の聞き書きをした実況とは、余程また
ちが
異つた処がございます、そこで此講談は、新しい処の説と古い処のもの
つまり
を折衷した、結局面白い処を取交ぜて弁じますので、大塩平八郎の学力
ど う
は如何であるとか、また性格を詳しく申上げるのではございません、重
に天保八年酉の年の二月、大塩平八郎が自ら一種の社会党を組織して、
大阪市中を騒がしました当時の有様を詳しく弁じる事に致しました、此
そつ
人間には総て表裏のあるもので、表ばかりを見て居るのと、裏から窈と
覗いて見るのとは雲泥の相違のあるもので、此講談は表からも見、また
はゞかり
裏から見た処も、忌憚なく申し述べますつもりでございますから、其御
つもり
心算でお聞き取りを願ひます。
偖この大塩平八郎は大塩家の養子である、実家と云ふのは阿波国徳島
の城主二十五万七千余石、蜂須賀阿波守の老臣、稲葉九郎兵衛の其また
家来で、真鍋市郎と云ふ人の二男で、同国美馬郡岩倉村と云ふ処で生れ、
未だ幼年の頃に大阪の親戚、塩田喜右衛門と云ふ人の養子となつたが、
間もなく此塩田は離縁となつて、大塩平八郎の家に養はれて居たのが、
後に大塩家を相続する事になつたと、二三の書物に出てございますが、
平八郎は全く大塩家の血統に違いは無いので、此事は当今天満の与力町
に住居して居られます、旧天満与力の一員でありました、関根一郷翁の
お話しに依つても確実でございます、平八郎は幼名を文之助と申しまし
て、実父の名は佐兵衛と云つたさうで、祖父を政之丞と申し、平八郎は
ぢ い すぐ
嫡孫承曾と云つて、この祖父さんから直に家督を譲り受けたのださうで
ございます。
尤も此佐兵衛と云ふ人は、部屋住の間に今日で云ふと、内縁の妻に孕
そ うち
ませて、出来たのが文之助、而して佐兵衛は父政之丞の跡を継がない間
ど う
に、若死したるものと見えます、此大塩家の家来は如何であるかと云ふ
と、是れはまた今川了俊より出でゝ、世々今川家の臣となり、中祖波右
か
衛門と云ふのが今川義元に従ひまして、彼の有名な桶狭間の合戦に、原
わすれがたみ なにがし
頭の露と消えましたので、遺 子 の 何某と云ふのが、今川家を去つて
徳川家康に仕へ、小田原の役に功労がありましたので、伊豆国に領地を
得る事になりました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その7
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その5
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