Я[大塩の乱 資料館]Я
2013.10.7

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大塩平八郎』

その41

香川蓬洲

精華堂書店 1912

◇禁転載◇

第八席 (6)

管理人註
   

 『夫れは実に怪しからん事ぢや、そんな事を知つて組の者等は安閑と   くは                              指を咬へて居るのか、夫れでは全く組の者は、物の用には立たぬものと做 なされて居るのぢや、こりや私が云ふまでもない事だが、此大阪の与力、      たとへいくたび また同心は仮令幾度奉行が代つても、矢張りまた甲から乙、乙から丙と、                   たす 前々から仕来つた事を勤め、時の奉行を補けるのが吾々役目の一ツぢや、 随つてまた与力などには、夫れだけ権威と云ふ者もあるのぢや、が其権威 があるからと云つて、何も今度の奉行に限つて、夫れを不満に思ふ事もな からうと思ふ、併し夫れ等の事もまた退いて考へれば、或は新任の奉行の                     はびこ 目から見れば、我組下の者が、何かに付いて跋るやうに思はるゝのも無理 はない、其事に就ては此平八郎にも考へがある、夫れはまた後日に話さう、 何にしても斯う米価が高くては、いつ何時如何いふ騒動が起るまいとも云 はれぬから、鉄砲の稽古は致して置くのが宜い』  『委細承知仕りました』  そこで大塩格之助を初め、予て平八郎の門人となつて居る東組の同心吉             うち 見九郎右衛門、其他門人の中数名の者に、鉄砲の稽古を為せました。  其砲術の師匠と云ふのは、玉造口の同心で、藤重良左衛門と云ふ人、此 良左衛門は中島流砲術の名人でありました、モウ此時からして平八郎は、 大義と唱へ、計略を以て奉行跡部山城守を討取り、御城詰の諸役人にも一 泡吹かせ、大阪市中を焼払つて、豪家の貯へて居る金銀米穀を取出して、               えら 窮民に与へ、其上で自分は一ツ剛い者にならうと云ふ考へを起しましたが、 まだ其事は格之助にも、腹心の門人にも打明して云はないで、来年早々に             は堺の浜辺りで、丁打を行るのだと云つて、火薬を沢山買込んで居りまし たが、九月から十月頃になると、愈世間がやかましくなつて来て。此処で           かしこ も餓死する者がある、彼処でも餓えて死んだと云ふ噂があつて、実際大阪          ○ ○ の市中は不景気のどん底になつて了ひました、其処で平八郎は格之助を呼 びまして。  『どうも斯ういふ時節になつては、私も隠居だからと云つて、黙つて 見て居る事は出来ない、何とかして窮民共を救つて遣りたくは思ふが、到 底私の力には及ばないから、お前、明日出勤をして御奉行へ、私の口上で 一ツお願ひ申して呉れぬか』



幸田成友
『大塩平八郎』 
その104
 


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