平『夫れは実に怪しからん事ぢや、そんな事を知つて組の者等は安閑と
くは み
指を咬へて居るのか、夫れでは全く組の者は、物の用には立たぬものと做
なされて居るのぢや、こりや私が云ふまでもない事だが、此大阪の与力、
たとへいくたび
また同心は仮令幾度奉行が代つても、矢張りまた甲から乙、乙から丙と、
たす
前々から仕来つた事を勤め、時の奉行を補けるのが吾々役目の一ツぢや、
随つてまた与力などには、夫れだけ権威と云ふ者もあるのぢや、が其権威
があるからと云つて、何も今度の奉行に限つて、夫れを不満に思ふ事もな
からうと思ふ、併し夫れ等の事もまた退いて考へれば、或は新任の奉行の
はびこ
目から見れば、我組下の者が、何かに付いて跋るやうに思はるゝのも無理
はない、其事に就ては此平八郎にも考へがある、夫れはまた後日に話さう、
何にしても斯う米価が高くては、いつ何時如何いふ騒動が起るまいとも云
はれぬから、鉄砲の稽古は致して置くのが宜い』
格『委細承知仕りました』
そこで大塩格之助を初め、予て平八郎の門人となつて居る東組の同心吉
うち
見九郎右衛門、其他門人の中数名の者に、鉄砲の稽古を為せました。
其砲術の師匠と云ふのは、玉造口の同心で、藤重良左衛門と云ふ人、此
良左衛門は中島流砲術の名人でありました、モウ此時からして平八郎は、
大義と唱へ、計略を以て奉行跡部山城守を討取り、御城詰の諸役人にも一
泡吹かせ、大阪市中を焼払つて、豪家の貯へて居る金銀米穀を取出して、
えら
窮民に与へ、其上で自分は一ツ剛い者にならうと云ふ考へを起しましたが、
まだ其事は格之助にも、腹心の門人にも打明して云はないで、来年早々に
や
は堺の浜辺りで、丁打を行るのだと云つて、火薬を沢山買込んで居りまし
たが、九月から十月頃になると、愈世間がやかましくなつて来て。此処で
かしこ
も餓死する者がある、彼処でも餓えて死んだと云ふ噂があつて、実際大阪
○ ○
の市中は不景気のどん底になつて了ひました、其処で平八郎は格之助を呼
びまして。
平『どうも斯ういふ時節になつては、私も隠居だからと云つて、黙つて
見て居る事は出来ない、何とかして窮民共を救つて遣りたくは思ふが、到
底私の力には及ばないから、お前、明日出勤をして御奉行へ、私の口上で
一ツお願ひ申して呉れぬか』
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