|
矩『拙者は暫時一室を拝借いたし、良之進には夫れとなく暇乞ひを致し
はゞかり おの/\
て、一刻も早く国許へ遣はしませう、憚りながら、各より、先生へ宜しく
お伝へを願ひたい』
と云ふので、一同の者は、言甲斐があつたと打喜びまして、其一室を立
かね やしき
去りました、矩之允は、予てより、大塩の邸宅の勝手を知つて居りますか
へ や
ら、自分が先年此邸宅に居つた時に、部家として居りました小座敷へ入つ
て見ると、見覚えのある机に本箱などが置いてあります其机に向つて、国
もと かきおき したゝ
許なる、母の許へ送るべき遺書を認めて居りますと、最前より大塩邸の供
部家に居りました岡田良之進は、虫の知らせとでも云ふのか、何となく矩
ど こ
之允の事が心に掛りますので、何処に何をして居られるのかと思ひながら、
あちら
庭伝ひに前栽の方へ来て見ると、彼方の座敷とは廊下伝ひになつて居りま
す、離れた小座敷の内に、矩之允は、手紙を認めて居ります様子、傍へ立
寄らうかと思つたが、物を書いて居る処へ無遠慮に行くのも悪いと心得、
柴垣がありましたから、其小蔭に身を潜めて様子を窺ふて居りますと、矩
つ ど う
之允は少し書いては思案をし、また書いては息を吐いて居ります、如何
ようす た ゞ なにゆえ
も其挙動が尋常なりませぬ、夫れに何故か此邸宅へ大勢の者が集まつて居
て、何となく殺気を帯びて居りますから、不思議でなりません、コリヤ主
よか
人を促して、一刻も早く、此邸宅を出るのが宜らうと思ひましたから、柴
ひとま
垣の小蔭を立出で、矩之允の居る一室の椽先きへ立寄りますと、モウ此時
うはふう
には手紙を書終り、上封をして今上書をして居る処でございます。
てう
矩『オゝ其処へ来たのは良之進か、恰ど宜い処であつた、今お前を呼ん
いゝつ
で吩咐ける事があつたのだ』
良『左様でございましたか、而して貴下はいつお立ち遊ばします』
矩『いつ立つとは、帰国の事を尋ねるのか』
良『左様でございます』
矩『実は今度斯うして御当家へ立寄つたのは、来る途中でも云つた通り、
つもり
久々で先生の御機嫌を伺つて、直ぐにまたお暇を申して帰国を致す心算で
とゞ
あつたが、先生のお勧めに依つて、暫らく此大阪に足を止めねば相成らぬ
てがみ
事になつたのぢや、夫ゆえに今其趣を認めた処、其方は此書状を持つて、
一刻も早く帰国をして呉れい、委細の事は此書状に認めてあるから』
かきおき ふところ いくら
と今上書をした遺書の一通を良之進に渡し、尚ほ懐中から幾許かの金子
を取出しまして。
|
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
森 繁夫
「宇津木静区と
九霞楼」
|