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矩『此金は路用に致すがよい』
良『其では貴下は御当家に、御逗留を遊ばすのでございますか』
矩『左様ぢや』
どうぞ
良『モシ旦那様、何卒仰しやつて下さいまし』
矩『何を』
まこと
良『どうど真実の事を仰しやつて下さいませ、今日御当家へ参つた時か
い か
ら、如何にも様子が変でございますから、私は何となく此胸が騒いでなり
ません、委しい事は解りませんが、何だか徒党を企て……』
矩『アゝコレ、左様な事を申しては相成んぞ』
良『善か悪かは存じませぬが、貴下も其徒党にお加はりになつたのでご
ざいませう』
うか
と良之進は矩之允の顔を眺めて、両眼に涙を一ぱいに泛めて居りまする。
なまじ
矩之允も今は憖いに包み隠さんよりも、事実を明して国許へ立帰らせや
うと思ひまして。
ひごろ せうね
矩『良之進、其方が日来の性根を見込んで、話して聞かせる事がある、
此方へ上れ』
と良之進を側へ呼寄せ。
矩『実は我恩師たる後素先生には、米価騰貴の今日、窮民等を救はんが
ふじつ
為めに大儀を企て、不日事を挙げらるゝ事になつて居るのぢや、尤も此事
あなが
は強ち悪い事ではないが、先生としては甚だ不覚の御企てかと思ふに依つ
いろ/\ いさ
て、実に先刻より種々とお諫め申したれど、お聞き入れはない、夫れゆえ
此、矩之允は意を決し、此上は一身を犠牲に供して、今一度お諫め申さう
したゝ てがみ
と思ふのぢや、其方は一刻も早く当家を立退き、此処へ認め置きたる書状
を持帰り、母上にお渡し申して呉れい、また其方の事は先達て長崎出発の
みぎ
砌りに、書状で詳しく母上、また家来大森権之進へも申送つて置いたから、
早く彦根へ参るやうに』
せうがい
良『スリヤ貴下様には、御生害のお覚悟をなさいましたか』
矩『ウム、我一命も茲に迫つて居るのぢや、其方も猶予いたして居つて
い か
は、如何なる事かに立至るかも知れない、危険の場合ぢや、斯ういふ中に
てがみ
も誰が来るかも知れぬから、サア、書状を大切にして、早く行け、コレ、
猶予する場合ではない、サア早く行かぬか、行つて呉れい』
せきた にわか
と急立つて居ります折から、俄然に彼方が騒がしくなつて参りましたか
ら、矩之允は良之進を突出すやうにして。
矩『所詮モウ表門よりは無事に出づる事はむづかしからうから、サア、
拙者が裏の切戸を開けて遣る、其処から早く此屋敷を立退くやうに』
おりたち
と庭に下立まして、勝手は知つて居りますから、裏口の戸を開けまして。
矩『無事に彦根へ往つて呉れいよ、モウ逢はぬぞ』
と云ひながら、良之進を、切戸の外へ押出しまして、跡をビツシヨリと
締め切りました、良之進は裏口から出ましたが、主人の身の上が案じられ、
たゝず
一足も進みませんので、暫らく塀の外に彳んで居りました、此方は大塩平
八郎、大井正一郎、安田図書を傍近く招き寄せ。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
森 繁夫
「宇津木静区と
九霞楼」
不日
すぐであること
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