|
お話しは少し跡へ戻りますが、平山助次郎の母お継は、どうも近頃忰の
ようす
挙動が変だと思ひ、夫れとなく異見を加へました処が、別に何の仔細もな
く、唯大塩後素先生の処で、学問の稽古をして居るのだと申しますので、
若い者に余りひつこく云ふのは却つて宜しくないと、其儘にして置きまし
かね/゛\
たが、どうも心に掛つてなりません、二月十七日の事、予々助次郎と懇意
にする何某と云ふ者の宅へ参りまして、夫れとなく探つて見ますと、其男
は秘密を洩しましたので、これは大変とお継は屋敷に立帰り、下女を呼び
まして。
継『未だ忰助次郎は帰ませぬか』
女『イエ先刻お帰りなりましてございます』
継『左様か、此処へ呼んで下され』
と云ふので、下女は助次郎に其由を伝へますと、助次郎は母の居間へ参
りまして。
助『此雨の降りますのに、貴女はマア何処へお越しになりました、大層
めしもの
お着衣が濡れて居るではございませんか、お召換へ遊ばしませ』
継『イヤ/\、雨に濡れて此着物は、また乾きもするし、着換へる事も
ぬれぎぬ
出来やうが、乾かぬ濡衣、着換へもならぬ汚れた心……助次郎、お前、昨
日から帰らぬのは、何処へ往つて居なすつたのだ』
助『ハイ昨日役所へ出ました処が、同僚の者が今夜の泊り番を、代つて
呉れと頼まれましたので……』
継『夫れならば、何故其事を、使ひの者にでも、云ふては寄越しなさら
ぬのだ』
助『サ夫れが何でございまして……ツイ、其私が』
いひわけ
継『モウ今更、弁解をするには及びませぬ、コレ助次郎、此処では話さ
れぬ、アノ御仏間まで来て下され』
助『ハイ……』
と云つたが、何故仏間へ来いと云ふのか解りません。
継『サアお前、先きへ御仏間へ往つて居て下さい、私も直に行くから』
つ ね
助次郎も母の様子が平素とは違つて居りますから、変な事だとは思ひま
しやべ
したが、マサカ三平が饒舌つた事を、聞いて戻つたと云ふ事は知らない、
こゞと
大方昨日から戻らずに居た事に就て、何かお叱言でも仰しやるのであらう
いできた
と思ひながら、仏間へ往つて、居りますと、母も後より出来り、仏壇の位
牌を取り出して、助次郎の前に置きました。
いよ/\
此有様を見て助次郎も、愈 不思議に思つて居ると。
継『助次郎、此位牌は御承知であらうな……今日は私一人ではない、此
おとうさま
位牌こそ即ち阿父様、二親の前で、お前に尋ねる事がある、併し助次郎、
お前は両親の言葉を用
ふる心か、まづ夫れから先きに返事をしなさい』
そむ
助『どうも合点の行かぬ貴女の為され方、私は貴女のお言葉を背くやう
な事は、今日までにございませず、今後とても其通りでございます』
継『そんなら云ひますが、何事も隠してはなりませんぞや……此間もお
い
前に尋ねたら、大塩先生の処で、陽明学の講義を承はつて居ると云やつた
くみ
が、然うではござるまい、お前は平八郎殿の今度の謀叛に与して、御奉行
の首の首を打取る役目を、受取つて居やうがな』
|
石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
『塩逆述』
巻之五
「その12」
|