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思ひ掛けない母の言葉にハツと驚きましたが、モシ此場に至つては、そ
んな事はございませんと云ふ余地がない、然ればと云つて、左様でござい
うつむい
ますとは、尚以て云はれませんから、黙つて俯首て居りますと、母のお継
は、帯の間から懐剣を取出し、袋の紐を解いて。
いひわけ
継『助次郎、モウ今となつて過ぎ去つた事の、弁解をするには及ばねば、
おとうさま
また聞くのも耳の穢れ、先祖の御位牌を祀つた御仏壇の前、阿父様の此御
位牌の前で改心するか、又一旦師と頼んだ平八郎殿への義を重んじて、味
ふたつ うち はつきり
方をすると云ふか、此二点の中一ツの返事を、判然として下さい、此平山
家代々が御恩を蒙つたるは、今の御奉行ではないけれども、時の御奉行に
てきた
敵対うのは、取も直さず公儀に弓引くも同然、此処の処を能く考へねばな
りません、一旦の義理を立つるが為めに、先祖代々が安楽に世を送つたる
し
御恩を忘れて、公儀に敵対をする心か、サア、心を定めて返事を為なさい、
其返答に依つて此母も覚悟がある』
くつろ
と、お継は手に持つたる処の懐剣の鞘を払ひ、衣服の胸許を寛げまして、
イザと云つたら忽ち自害をして、相果ると云ふ決心の程を示しました、差
うつむい
俯首て居りました助次郎は、此時母の前に両手を突きまして。
助『誤りましてございます、今日唯今助次郎、断然心を改めましてござ
おつか
います、阿母様、助次郎が改心の証拠、唯今貴女に御覧入れませう』
せうとう
と云ひながら、腰に差して居りました、小刀を手に取つて鞘を払ひ、既
に腹を切らうとしたから、お継は其手をしつかと押へて。
継『コレ助次郎、今腹を切るのは、此母へ、改心の証拠を見せる気かは
すて
知らぬが、命を捨ては公儀へ対して、忠義にはなりますまい、早まつた事
をするよりも、何故公儀のお為めになる事をせぬのぢや』
助『公儀のお為めになる事と云へば、大塩先生をお諫め申して、今度の
企てを思ひ止まらすより外はございませんが、平日より先生の御気象とし
い か や う
て、一旦斯く思ひ立つたる事を、私如き者が如何様に申しましたとて、所
詮お心を翻へさるゝ事はごさせいませぬ』
継『サゝゝ其処が考へ処ぢや、所詮諫めを用ひられぬと知つたれば、今
そなた しらせ しら
から其方は御奉行へ、何故に密告をしやらぬのぢや、跡部様へ此事をお報
せ申すのが、公儀への忠義、昼間は却つて人目もあれば、今から早う御役
宅へ往つて、事の次第を詳しう申し上げたる其上で、大塩殿への義理を思
はゞ、其上で切腹をするが宜い』
と云はれて、助次郎も意を決し。
助『仰せの如く仕ります、必ず御安心下さいまし』
やしき
と、是れより平山助次郎は雨をも厭はず我邸を立出でまして、東町奉行
所へと駈け行きました。
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石崎東国
『大塩平八郎伝』
その113
『塩逆述』
巻之五
「その12」
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