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あるき
此方は宮脇志摩、村の歩夫庄助を殺して、自分の身代りに残し置き、裏
そつ あき
口から窃と抜出して、長島と云ふ処まで参りますと、一軒の空小家があり
うち
ましたから、其小家の内で一夜を明かさうと思ひまして、息を休めて居る
おつて
処へ、何者かゞ出て来て、其小家へ這入つて来る様子、扨は追人の者かと
こすみ
思つて、小隅の方に身を縮めて居ると、跡から這入つて来た者も、小家の
さ と
中に人の居る事を推知つたと見て。
◎『誰だ……其処に居るのは誰だ』
と云ふ声を志摩が聞いて。
志『然う云ふ貴様は市助でないか』
びつく
市助も恟りして。
市『ヒヤア、お前様ア旦那様でねへか』
志『志摩だ、貴様も逃げて来たのか』
うち
市『モウ家にやア居られねへで、逃げ出して来やしたが、旦那様、お前
ど こ
さまア是れから何方へ行かつしやるだア』
志『何方へ行くともまだ落着先きを定めては居らぬが、貴様は今から何
方へ行くつもりだ』
市『私も行く処は極つちやアないが、お前様ア今夜此小家で寝なさるつ
もりかい』
志『左様に致さうかと存じて居るのぢやが』
市『夫れが宜い、然うなさいまし、此小家に隠れて居りやア大丈夫だ……
私はもつと先きまで行つて、また宜い隠れ場所を見附けて、其処で一夜を
明す事にしませう』
いで
何と思つたのか、市助は、此空小家を立出やうとするのを見て、宮脇志
こいつ お れ
摩は、此奴乃公の事を訴人をするつもりだなと、悪く気を廻しまして。
おのれ
志『汝、主人の事を訴人するか』
と云ひながら、先刻鞘のない脇差の身を、手拭に包んで持つて居りまし
の いで うしろ はす
たから、手早く手拭を取除けて出行く、市助の後から背中を斜に斬附けま
した。
アツト云つてバツタリ倒れた市助を引摺つて、空小家の横手にあつた古
は
井戸へドンブリ陥めて、其儘夜道を取急ぎ、神崎川を渡らうと榎木本の渡
し場まで来ると、渡し守の居る小家には、淀稲葉の役人が、落武者が来る
かと、網を張つて待搆へて居る様子、捕まつてはならぬと道を転じて、庄
い あ ど て うち
本村へ出で、彼れから猪名川の堤防続きまで足を運びましたが、其中に夜
いづく おほ
は明近くなつて来ましたから、何方へ行つてもモウ逃げ果せる事は出来な
のんど
いと覚悟を定め、土堤を下りて一本の柳の木の下に立寄り、咽喉を貫いて
○ ○ ○
自殺を遂げました、処がいつの間にやら、半身川の中へのめり込んで居り
ますのを、翌日に至つて土地の者が見附け、大阪へ死体を送りましたが、
吹田村の名主権兵衛も不都合だが、八田、高橋の両人は大の失態でござい
ます、併し宮脇志摩は自殺をいたしましたので、両人へは格別の咎めもな
く、穏便に相済みました。
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幸田成友
『大塩平八郎』
その156
『塩逆述』附録一
その1−21
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