Я[大塩の乱 資料館]Я
2007.1.15

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「大塩の乱関係論文集」目次


『大 塩 平 八 郎 』 その156

幸田成友著(1873〜1954)

東亜堂書房 1910

◇禁転載◇


 第三章 乱魁
  八 末路 (8)
 改 訂 版


橋本忠兵衛
作兵衛
ゆう、
みね









宮脇志摩

橋本忠兵衛は大工作兵衛を伴ひ、平八郎の遺言を伝へんと其夜深 更伊丹へ着いた、之は伊丹の紙屋幸五郎方へ平八郎の家族が匿し てあるからで、ゆうは兎角近来病気勝、又みねは産後の恢復思は しからざる為、本月七日平八郎より忠兵衛方にて当分病気保養を 致せと命ぜられ、両名は弓太郎及養女いくを伴ひ、下女りつ諸共 般若寺村へ赴いたが、其後忠兵衛は平八郎と相談の上、之は忠兵 衛親類にて中山寺参詣近辺遊覧の足弱連と号し、忠兵衛の知人常 (幸)五郎方へ預けたのである、ゆう・みねは忠兵衛より本日の顛 末、平八郎父子自滅の覚悟等を聞終り、愁歎一方ならず、遺言に 従ひ自殺するは易けれど、両人自殺せば弓太郎いくハ路頭に迷ひ、 餓死にも至るべく、責めて弓太郎いくの身分落付くまでは存命い たしたしと、涙ながらに頼むので、忠兵衛も義妹・娘・初孫とい ふ情に絆され、翌日早朝幸五郎方を立出で、作兵衛を荷物持とし、 能勢郡から丹州路を経て京都へ出たが、旅客の詮議厳敷、廿七日 捕縛となり、廿九日大阪へ引渡となつた、以上で大塩父子と同船 者の末路は皆解つたのである。 宮脇志摩の妻りかの申口によれは、夫志摩は十九日昼四ッ時頃天 満に火事ありと聞き、打驚きたる体にて駈出し、七ッ時頃帰宅し たりとある、志摩の名は大砲の車台に書付けてある位故、徒党の 一人であることは疑を容るる余地がない、彼は具足櫃や槍を担が せて、長柄村の渡場まで駈付け、其処より引返したといへば、乱 暴には加らなかつた、「打驚きたる体」とあるのは、挙兵の時刻 が相違したのに吃驚したのであらう、廿日玉造口与力八田又兵衛 高橋佐左衛門は同心廿二名を引連れ、尼崎の兵と共に守口町に赴 き、それより路を転じて吹田に向ひ、志摩の家を囲んだ所、志摩 はソレと察して玄関にて切腹に及び、両与力は為す事もなく立去 つた、之は大なる落度で、何故其時庇口の検査を為し、軽ければ 医者を呼び、一応手当を加へた上で召捕つて帰らぬか、又重しと 見ば介錯の上首級として携へ還らぬか、仮令当時に於て未だ志摩 加盟の実を知らざるにせよ、乱魁の親戚たる上は右の如く取扱ふ のが至当であらう、又兵衛佐左衛門は徒に流血の淋漓たるに驚き、 何等の考も出なかつたのか、之加志摩は疵所案外に軽く、捕手の 立去つた後、養母なを・妻りか・百姓清右衛門の止むるを振払ひ、 臨月に近きりかを押倒して気絶せしめ、なを清右衛門を鎗にて突 伏せ其儘表へ飛出して行衛知れずとなり、漸く廿一日に庄本村地 内の溜池で水死してゐるのを発見したとある、又兵衛佐左衛門は 不調法千万と言はれても返す言葉があるまい。

 橋本忠兵衛は大工作兵衛を伴ひ、平八郎の遺言を伝へんと深更 伊丹へ着いた。伊丹の紙屋幸五郎方へ平八郎の家族が匿してある からである。ゆうは兎角近来病気勝、みねは産後の恢復思はしか らず、本月七日平八郎より忠兵衛方にて当分病気保養を致せと命 ぜられ、両名は弓太郎及び養女いくを伴ひ、下女りつ諸共般若寺 村へ赴いたが、その後忠兵衛は平八郎と相談の上、之は忠兵衛親 類にて中山寺参詣近辺遊覧の足弱連と号し、忠兵衛の知人幸五郎 方へ預けたのである。ゆう・みねは忠兵衛より本日の顛末、平八 郎父子自滅の覚悟等を聞終はり、愁歎一方ならず、遺言に従ひ自 殺するは易けれど、両人自殺せば、弓太郎いくは路頭に迷い、餓 死にも至るべく、責めて弓太郎いくの身分落付くまでは存命いた したしと、涙ながらに頼むので、忠兵衛も義妹・娘・初孫といふ 情に絆され、翌日早朝幸五郎方を立出で、作兵衛を荷物持とし、 能勢郡から丹州路を経て京都へ出たが、旅客の詮議厳敷、廿七日 捕縛となり、廿九日大阪へ引渡となつた。以上で大塩父子と同船 者の末路は皆解つたのである。  宮脇志摩の妻りかの申口によれば、夫志摩は十九日昼四ッ時頃 天満に火事ありと聞き、「打驚きたる体」で駈出し、七ッ時頃帰 宅したとある、志摩の名は大砲の車台に書付けてある位故、徒党 の一人であることは疑を容れる余地がない。彼は具足櫃や槍を担 がせて、長柄村の渡場まで駈付け、其処から引返したといへば、 乱暴には加はらなかつた。「打驚きたる体」とあるのは、挙兵の 時刻が相違したのに吃驚したのであらう。二十日玉造口与力八田 又兵衛高橋佐左衛門は同心廿二名を引連れ、尼崎の兵と共に守口 町に赴き、それから路を転じて吹田に向ひ、志摩の家を囲んだ所、 志摩はソレと察して玄関にて切腹に及び、両与力は為す事もなく 立去つた。之は大きな落度で、何故庇口を検査し、軽ければ医者 を呼び、一応手当を加へた上で召捕つて帰らぬか、又重しと見な ば介錯の上首級として携へ還らぬか。仮令当時未だ志摩加盟の実 を知らざるにせよ、乱魁の親戚たる上は右の如く取扱ふのが至当 であらう。又兵衛佐左衛門は徒に流血の淋漓たるに驚き、何等の 考も出なかつたのか。之加志摩は疵所案外に軽く、捕手の立去つ た後、養母なを・妻りか・百姓清右衛門の止むるを振払ひ、臨月 に近きりかを押倒して気絶せしめ、なを清右衛門を鎗にて突伏せ 表へ飛出して行衛知れずとなり、漸く廿一日に庄本村地内の溜池 で水死してゐるのを発見したとある。又兵衛佐左衛門は不調法千 万と言はれても返す言葉があるまい。


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